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越前若狭探訪

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鯖江藩主が拓いた「衆とともに楽しむ庭園」 西山公園〈鯖江市〉

西山公園〈鯖江市〉地図

間部詮勝が拓いた嚮陽渓に因んで整備された嚮陽庭園の上段の庭
▲間部詮勝が拓いた嚮陽渓に因んで整備された嚮陽庭園の上段の庭

嚮陽庭園の茶室風休憩所「松堂庵」(「松堂」は間部詮勝の雅号)
▲嚮陽庭園の茶室風休憩所
「松堂庵」(「松堂」は間部詮勝の雅号)

秋には1600本のモミジが色づく紅葉の名所
▲秋には1600本のモミジが色づく
紅葉の名所

例年、ゴールデンウイークの頃に満開を迎える西山公園のツツジ
▲例年、ゴールデンウイークの頃に満開を
迎える西山公園のツツジ

幕末の嚮陽渓開設当初に描かれた浮世絵風景画「越州鯖江嚮陽渓真景」
▲幕末の嚮陽渓開設当初に描かれた浮世絵風景画
「越州鯖江嚮陽渓真景」

地図

 西山公園は、春に5万株が咲き誇る日本海側最大のツツジの名所。幕末の安政3年(1856)、鯖江藩第7代藩主・間部詮勝(まなべあきかつ)(1804~1884)が、領民とともに楽しむための庭園として築造した「嚮陽渓(きょうようけい)」がその始まり。開園当時に作製された浮世絵風景画には、「貴美子賀池(きみこがいけ)」という大池や反り橋、ほとりに軒を連ねる茶屋、梅林、松林、桜、楓の木々などが描かれている。池には屋形船が浮かび、文人墨客(ぶんじんぼっかく)、歌舞音曲(かぶおんぎょく)に親しむ人たちで賑わった。
 江戸時代、各藩の大名は自らのため競って豪壮な庭園を築いた。そうした時代に詮勝は、春秋の自然に接し、「与衆同楽(よしゅうどうらく)(衆と楽しみを同じくする)」ために嚮陽渓を開設。公園内の「嚮陽渓碑」には、詮勝がそうした思いを詠んだ漢詩が刻まれている。藩主自ら家臣、領民とともに労役に汗を流したという話も。詮勝は「物事に動じず清廉で、抜きん出て意志が強く、博学」と評され、詩文や書画に秀(ひい)でた文化人で、藩士の子弟や領民の教育にも力を注いだ。
 開国を巡って揺れ動く幕末期、傑出した人物であった詮勝は、出世コースを歩み、徳川幕府の中枢・西丸(にしのまる)老中に就いた。天保(てんぽう)の改革を進める老中首座の水野忠邦(ただくに)と対立して、途中15年間、幕政から離れ、その間に嚮陽渓を築造。安政5年には、大老・井伊直弼(いいなおすけ)に請われ、その右腕として老中勝手掛(かってかかり)兼外交掛(いわば財務大臣と外務大臣の兼務)に。翌年には老中首座へ。梅田雲浜(うんぴん)、橋本左内(さない)、吉田松陰(しょういん)(間部暗殺を計画)ら多数の志士を投獄・処刑した安政の大獄では、「井伊の赤鬼」「間部の青鬼」と呼ばれた。このとき井伊大老が主要な者をことごとく厳罰に処したことなどで、詮勝は対立を深め、のちに老中を解任されている。
 明治になると、嚮陽渓は荒廃。大正天皇の即位記念事業で「西山公園」と改称、修復が行われ、大広場のほか中腹東側には瓢箪(ひょうたん)池や藤棚を設置、全山に桜を植え、県下でも指折りの桜の名所に─。しかし、太平洋戦争中に防空壕材や燃料用に樹木を伐採、跡地を食糧増産のため畑にした。
 ツツジの植栽は、昭和33年の約2千株に始まり、同35年には第1回「つつじまつり」を実施。現在は、約5万株のツツジのほか、1000本の桜、1600本のモミジがあり、桜や紅葉の名所にもなっている。
 昭和60年前後には、公園の東側一帯に嚮陽渓に因(ちな)んで「嚮陽庭園」を整備、中国からレッサーパンダが贈られ、西山動物園がオープン。四季を通じて大勢の人が公園を訪れる。詮勝が嚮陽渓に託した願いは、現代に受け継がれてきた。平成18年度には「日本の歴史公園百選」に指定されている。

レッサーパンダリスザルなど12種類の動物が飼育されている西山動物園(入園無料)
▲レッサーパンダやリスザルなど12種類の動物が飼育されている西山動物園(入園無料)

段の庭の近くに建つ間部詮勝の胸像①と2基の嚮陽渓碑。昭和45年に左の碑②が風化で倒壊したため、翌年、右の碑③が再建された。碑面に「与衆同楽」の詩が刻まれている
▲上段の庭の近くに建つ間部詮勝の胸像①と2基の嚮陽渓碑。昭和45年に左の碑②が風化で倒壊したため、翌年、右の碑③が再建された。碑面に「与衆同楽」の詩が刻まれている。

左:西山公園 案内図 右:鯖江藩主・間部詮勝の胸像

【参考文献】「 越州鯖江嚮陽渓真景」考(竹内信夫著・若越郷土研究第60巻1号所収〔福井県郷土誌懇談会〕平成27年発行)、「間部詮勝と幕末維新の軌跡」(鯖江市教育委員会文化課・平成27年発行)、「間部詮勝ゆかりの地ガイドブック」(鯖江市教育委員会文化課・平成26年発行)

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