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越前若狭探訪

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水海の石仏群〈池田町〉四国八十八箇所巡礼の功徳を故郷に

水海(池田町)地図

 池田町水海(みずうみ)の山中に、人知れず、92体の石仏が祀(まつ)られている。
 初めて現地を訪れたとき、木漏れ日の差し込む杉林に囲まれて、ひっそりとたたずむその様子に心打たれた。
 「池田歴史の会」発行の『郷土史探究』によると、1887年(明治20)頃に水海の石丸藤右ヱ門氏が四国八十八箇所を巡って各霊場の土を持ち帰り、水海川を挟んで集落の対岸に位置する松山に周遊道を造り、各寺々の本尊の姿を摸した石仏を祀ったのが始まり。石仏の光背(こうはい)には、像が造られた「明治23年」と武生の石職人の名が刻まれている。石丸氏の息子さんが武生の町から石仏を背負い、池田への峠道を越えて水海まで運んだという。
 四国八十八箇所を巡礼する遍路道は全長1千㎞を超え、すべてを歩き通すと40~60日を要する。現在のように車を使えば、10日ほどで一巡できるが、明治期には容易にできる旅ではなかった。ちなみに、1889年(明治22)、敦賀-神戸間が鉄道で結ばれている。石丸氏が利用したかどうかは定かでないが、四国に至るまでの行程は、以前と比べてはるかに便利になった。
 石丸氏は、四国巡礼の功徳を家族や故郷の人々とわかつために各霊場の土を持ち帰り、大変な労力と費用を掛けて石仏を祀った。このように四国八十八箇所を摸した石仏群は、江戸時代以降、町内外をはじめ全国に大小さまざまなかたちで設けられている。
 水海の石仏群は、周遊道に祀っておいては管理が大変なため、その後、集めて7段の雛段状に並べ直された。維持管理は、石丸家の子孫に引き継がれた。あつい信仰心によって今日に伝えられたふるさとの文化遺産だ。

緑濃い参道の奥に祀られている石仏群
▲緑濃い参道の奥に祀られている石仏群。
130年余りの歳月を経た石仏。やさしい笑みをたたえている
▲130年余りの歳月を経た石仏。やさしい笑みをたたえている。
部子山の麓に位置する水海集落と水海川
▲部子山の麓に位置する水海集落と水海川。

水海の松山山腹に立ち並ぶ、四国八十八箇所霊場の本尊の姿を摸した石仏群
▲水海の松山山腹に立ち並ぶ、四国八十八箇所霊場の本尊の姿を摸した石仏群。

水海(池田町)地図

【参考】『郷土史探究』(池田歴史の会・2005年発行)、『写真集 国鉄・敦賀 JR旅立ちまでの105年』 (日本鉄道OB会敦賀支部企画編集・1987年発行)

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