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越前若狭探訪

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弘法大師が大岩に刻んだ仏様 三方石観世音〈若狭町〉

三方石観世音〈若狭町〉地図

本堂は本尊・聖観世音菩薩が刻まれた花こう岩を背負うように建てられている。

三方石観世音 本堂と御手足堂

左側が本堂(火災の後、1900年〔明治33〕に再建)、右側が御手足堂。

御手足堂

手足をかたどった木形など約6万点が奉納されている御手足堂。

参道にある妙法石

本堂(写真奥)へ向かう参道にある妙法石。昔、村人がお参りした時、この石から鶏鳴を聞いたとされ、以来、観音様の不思議な力が働いていると言い伝えられている。鶏鳴石とも呼ばれる。

 三方石観世音(みかたいしかんぜおん)の本尊・聖(しょう)観世音菩薩(ぼさつ)は、わが国真言(しんごん)宗の開祖・空海(くうかい)(弘法大師(こうぼうだいし)、774〜835)が、一夜のうちに大岩に刻んだものとされる。

 この観音像には、右の手首がない。若狭遍歴(へんれき)の途中、この地に立ち寄った空海は、彫り始めたものの夜が明け、妙法石(みょうほういし)(鶏鳴石(けいめいいし)とも)から鶏の声が聞こえたため、完成させずに立ち去ったと伝えられている。以来、この右手首のない観音様は、手足のけがや病(やまい)に苦しむ人たちの信仰を集めてきた。

 三方石観世音へは、国道27号線から観音川の渓流沿いに参道をたどり、山中へと分け入る。約1200年前…堂も人家もない森の中で独り、焚(た)き火を明かりに夜を徹して岩に観音菩薩を刻む若き修行僧・空海の姿が目に浮かぶ。

本堂の天井を埋める提灯
▲本堂の天井を埋める提灯(ちょうちん)も全快祝いの奉納品。著名人の名前も。

 本堂は、観音像が彫られた大きな花こう岩を背負うように建てられている。秘仏(ひぶつ)として祭壇(さいだん)の奥にまつられ、33年に一度しか拝観できない。(次のご開帳は2026年10月の予定)

 戦後の日本を代表する哲学者で、若狭三方縄文博物館の初代館長を務めた梅原(うめはら)猛(たけし)氏(1925〜2019)は空海について、「孤独を好み、山で思索をし、自然の中に仏を見た」「霊妙(れいみょう)なものが自然の中に宿っているということを若き日の修行の中から会得(えとく)した」と述べている。衆生(しゅじょう)を救うとされる観音菩薩をこの地で見たのだろう。

 空海は804年に31歳で唐(とう)(中国)へ渡るが、それまでの7年間の行動は伝記上、不明だという。この間に、四国をはじめ各地の山々で修行を重ねたとみられている。

 江戸後期の1813(文化10)、三方石観世音に近い臥龍院(がりゅういん)(曹洞(そうとう)宗)の第24世春山隣道和尚(しゅんざんりんどうおしょう)が寄進を募って堂を建立し、今に続く三方石観世音の礎を築いた。身体を病(や)む人は、本堂にお供えしてある手や足をかたどった木形(手足形)を借り受けて、朝夕、痛むところをさすると治ると信じられてきた。ご利益(りやく)があった人たちが、借りた手足形とともに、新しいものを奉納。それをまた別の人が借りていく。

 本堂前の御手足(おてあし)堂には、治癒(ちゆ)への感謝や願いを込めて奉納された手足形が、金色(こんじき)の観音様の周りにうずたかく積まれている。近年の調査では、その数約6万点、一番古いものは文政年間(1818〜30)で、人々の永くあつい信仰を物語っている。今年7月には、うち3455点の福井県有形民俗文化財への指定が決まった。

34体の観音像

▲本堂の裏には、西国三十三所と番外を合わせた34体の観音像が並ぶ。幕末期、地元の人たちの寄進によってまつられた。

七間(しちけん)朝市〈大野市〉地図

【問い合わせ】三方石観世音事務所〒919-1303若狭町三方22-1 TEL0770-45-0017 http://mikata.main.jp/ 拝観・駐車場無料

【参考文献】「三方石観世音の手足形等奉納品調査報告書」(福井県教育委員会・2020年発行)、若狭三方縄文博物館企画展「三方石観世音の御手足-御手足形に込めた祈りの習俗-」(2020年3月7日~8月31日開催)、「最澄と空海 日本人の心のふるさと」(梅原猛著・2005年発行)

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