木曽川開発の歴史

電力王 福沢桃介

1 慶応義塾へ入学

  桃介が15歳の時、桃介が通っていた中学校が廃校となり、隣人である榎本(役場の下級書記をしている新知識人)より慶応義塾入学を強く勧められました。この青年は、西洋文化の事にも詳しく、桃介の才覚を高く評価しており、桃介も榎本の勧めにより慶応義塾への進学を決意しました。  
進学のため東京に上京した桃介は、ロンドンの目抜き通りに似せた美しい赤いレンガの街や85基のガス灯がきらめく華やかな通りを見ても「なんだ!東京とは、こんなものか」と軽蔑のまなざしでながめるのでした。  
当時の慶応義塾は、1万4千坪もの広大な敷地に建てられた日本一の洋学校でしたが、その慶応義塾を前に桃介は、「これが日本一の洋学校か!心ある若者の的になっている慶応義塾とはこんな程度か!」とあなどりの声をもらしました。しかし、胸の内では、さすがの桃介も興奮でふるえているのでした。 
慶応義塾の寄宿舎での生活は、士族の子が多いためか、それぞれが肩を怒らせて大言壮語し、ちょっとしたことで喧嘩がおきるありさまでした。桃介は、年少組で、整った顔つきと華奢な体格から、貧弱に見られがちでしたが、人一倍負けん気の強い彼は、しばしば凄腕の先輩に組み付いては、その負けん気を発揮したことから一目をおかれておりました。     
上京して2年が経ち、桃介は18歳になりました。貧しいながら充実した学生生活を送っていた桃介ですが、遠慮がちに故郷の両親に余分の送金をお願いし、初めて洋服を購入しました。その洋服姿で桃介はよく演説会を聞きにいきました。                        
ある日、浅草橋で演説会を傾聴した帰り、両国橋を渡り、夕陽を浴びながら南本所を堅川沿いに荒川の近くまできたとき、黄昏の林の道で、馬上の女性が十数頭の野犬にかこまれ、馬から振り落とされそうになっていました。桃介は凶暴な野犬の群に向かって突進し野犬を追い払い助けました。このときの女性が後の大女優貞奴であり、貞奴との初めての出会いでした。
   

2 福沢家へ養子を承諾

  品川の海を見下ろす慶応義塾の運動場で、賑やかに体育競技会が開かれました。慶応義塾としては第1回目の体育会でした。長ズボンにメリヤスの純白のシャツを着て出場した桃介に「白っぽいばかりじゃ勢いがない」と絵のうまい学友が、背中いっぱいにたてがみをなびかせ、口を大きくあけて吠えているライオンの首を描いてくれました。          
この体育会には、来賓とともに福沢諭吉とその家族が居並んでいました。福沢家では、冗談まじりではありましたが、この体育会で次女お房の婿を見つけよう、という話がなされおり、いちはやく桃介に目をつけたのでした。   
福沢家の白羽の矢がたった桃介でしたが、桃介はその結婚話に条件をつけ、洋行の望みと引き換えに縁談を進める決意を固めたのでした。    

3 北海道炭礦鉄道へ就職

  洋行中、当時アメリカ最大の鉄道会社 ペンシルバニア鉄道は、鉄道事業のノウハウを学ぼうとする東洋人の福沢桃介に最大級の好意を示してくれました。                              
洋行途中の桃介に父の訃報が届き、母も他界したという知らせをうけ、両親の相次ぐ訃報は桃介にとって衝撃的な出来事でした。これをきっかけに桃介は洋行の期限を少し縮めて2年8ケ月で帰国し、直ちに、お房と結婚式を挙げました。                            
その後、北海道炭礦鉄道株式会社へ諭吉の段取りにより入社しました。入社当時桃介の月給は、百円。極めて破格で、この破天荒な待遇は、福沢諭吉の七光であり、先輩や友人からは、「月給泥棒」と呼ばれていました。  

 

4 北海道炭礦鉄道 東京支社開設。買炭係支配人として東京転勤

  房の慢性ホームシックは、妊娠も重なり重症となったある日、開設されたばかりの東京支社へと転勤になりました。(諭吉夫妻の計らいだったのでしょう)翌明治24年1月5日、両親宅で無事長男を出産し、名は駒吉としました。                              
桃介の東京支社での肩書きは「買炭係支配人」。当時、2部門にわかれていましたが、炭鉱部門が不振で、当時の北海道とその周辺には、石炭を大量に購入する工場がなく、東京支社の開設は、その余剰石炭を東京や関西方面に売りさばき、さらに海外まで輸出することにありました。      
桃介は、慶応義塾の大先輩井上角五郎専務の参謀となり、石炭の販売から海外輸出を一手に指揮する猛烈ぶりを発揮しました。こうして桃介の奮闘は、会社の業績を飛躍させ、かつて月給泥棒と皮肉った連中もこの活躍を素直に受け入れ認識をあらためました。                
明治27年7月、日清戦争が勃発、国内輸送は、完全に麻痺、会社は桃介の果敢な奔走により、イギリス籍の貨物船を購入しました。8月初旬、桃介は船の受け渡し式に出るため、横浜の埠頭に停泊している船の甲板で洋上の入道雲を見上げたとき、軽いめまいに襲われ、のどにあついものを感じ、掌と甲板に真っ赤な血が飛び散りました。愕然とする桃介。27歳の夏の出来事でした。

5 肺結核療養のため養生園へ入院、在院3ケ月の後、大磯に転地

 桃介は、かなり進行している肺結核と診断され、当時、伝染病研究の権威である北里柴三郎の養生園へ入院しました。入院中、桃介は仕事への責任感の強さから、看護婦の目をかすめて病院を抜け出したりしては、興奮と疲れで病状をぶり返しておりました。                  
そんな桃介を第一の親友である田端重晟は熱意をもって見守っていました。こうしたことなどをきっかけに桃介は、憑き物が落ちたように素直になり、療養に専念していきました。養生園での入院生活はおよそ8ケ月、その後大磯海岸にて転地療養しました。      
入院中、桃介は、福沢家というものの重圧から解放されたいという願いから断固として福沢家の人々のお見舞いを謝絶しておりました。      

6 京橋三十間堀で丸三商会経営

 桃介の病は、およそ3年の療養生活で完治しました。桃介は北海道炭礦鉄道を休職の後、退職し、王子製紙の取締役となりましたが2年ほどで辞任しました。その後、「丸三商会」を松永安左エ門とともに開業し順調に業績を伸ばしていきました。当時丸三商会は米国の貿易商社アメリカントレードカンパニーの下請けで、中国大連に木材を送るのがおもな仕事でした。   
ある日、商社との間で現在の金額にして20億円におよぶ仕事が入りましたがその後、商社は丸三商会との取引を断ってきました。       
それは、東京興信所の一枚の信用調査書が原因で、丸三商会を破産に追い込むものでした。その後、丸三商会は、桃介に代わって義弟の清岡邦之助が社長となって再興を計りましたが結局、倒産してしまいました。桃介も、この事で心労と過労と不眠が重なり、肺結核を再発させてしまいました。  

7 福沢諭吉先生没す

  明治34年元旦、三田の本邸では、福沢一族が集まり、桃介も妻子を連れて素直に年賀におもむいていました。               
数え年で68歳を迎える諭吉は、「いよいよ20世紀になった。われわれは古いことは一切忘れてしまい、これからは覚悟を新たにして、大いに進むことを考えようではないか」と力強く挨拶しました。数日後の1月25日、諭吉は脳溢血の再発で危篤に陥り、2月3日永眠しました。           
諭吉の死を境に一門の桃介を見る目も期待にかわり、亡き父を遠く越えられない諭吉二世たちの間にあって、桃介は誰の目にもずば抜けた駿馬に見えました。                             
偉大なる諭吉の圧力から解放された桃介は、冷静に自分自身を見つめる余裕を持つに至っていました。これが桃介の、おそまきながら「独立自尊」のスタートでした。                         

8 北海道炭礪鉄道会社に再入社

  桃介は「一歩後退、二歩前進」の考えで、北海道炭礦鉄道に復帰しました。この3度目の復帰は、桃介自身の地に落ちた信用を回復させる絶好の機会となり、退職までの5年間で、株式相場により巨万の富を隠し持っていました。                               
明治40年に株価が暴落し、それを予期したかのように桃介は、相場から足を洗いました.その後、桃介の忠告を聞かず、無一文になっていた松永を、関西旅行に連れ出しました.桃介にとってもこの旅は虚業家から実業家へ転進するステップとなったのです。実業家への転身は、試行錯誤の連続で、暴落成金の評判が広がると、各方面から事業話が持ち込まれ、会社設立に参加し、権利株により確実な利益を上げたことから、「権利株泥棒」と悪評がたった事もありました。                                                                                           

 

9 名古屋電燈株主名簿に登録

 桃介と松永の九州における鉄道事業成功の後、桃介は名古屋の東京系銀行や在住の慶応閥の要請をうけ名古屋電燈に乗り込みました。当時の名古屋電燈は、名古屋地方有数の近代企業で、日本の電力事業でも2番目に許可を得た会社でした。しかし、桃介は、名古屋士族との確執から半年で名古屋電燈を後にし、この間に電力に関するノウハウを蓄積しました。          


10   「三社合併」と大同電力誕生による木曽川開発

 木曽電気興業、日本水力、大阪送電を合併し大同電力が発足されました。大同電力は木曽川水系の水力を開発し、関西、中京等に電力供給(卸売)することで発展しました。                       
大同電力によって開発された電源の主流は、水力発電で、その大半が木曽川水系で占められております。大同電力社長である桃介は、木曽川の電源開発に情熱を燃やし「一河川一会社主義」のもと、河水を余すことなく、それぞれ適地に発電所を建設し、河水の有効利用をはかりました。そのために、桃介は木曽川の水利権を獲得しました。                
木曽川水系で桃介によって建設された発電所は、賤母、大桑、須原、桃山、読書、
大井、落合の7発電所であります。              

11  大井発電所建設

 大井発電所は、わが国初の本格的な高えん堤をもつダム式発電所で後の木曽川水系のダム建設技術はもとより、わが国におけるダム建設技術の先駆的役割を果たすこととなりました。                   
大正10年に着工しながらも。大正13年12月の完成までの間、幾度か洪水に見舞われ仮設橋が倒壊したり、また、関東大震災(大正12年9月)に伴う金融情勢の悪化により建設資金の調達が困難となったため、民間企業としてはじめて米国(ジロン・リード社)で外債を発行し、資金不足を切り抜けるなど、幾多の困難を克服しての完成でありました。この間の経緯については大井ダムえん堤傍に立つ紀功碑の銅板に深く刻み込まれています。 

    このページの先頭へ戻る   

(参考文献)

電力王 福沢桃介展-福沢桃介展プロジェクトチーム      
福沢桃介翁傳-大西理平著                  
大同電力株式会社沿革史-大同電力社史編纂事務所編      
東邦の百年-中部経済新聞社編                
東邦電力史-東邦電力史編纂委員会編             
経営の鬼才福沢桃介-宮寺敏雄著               
電力王福沢桃介-堀 和久著                 
福沢桃介の人間学-福沢桃介著                
関西地方電気事業百年史-関西地方電気事業百年史 編纂委員会編
激流の人                          
矢作製鉄沿革年表                      
名古屋電燈株式会社社史                   
大同製鋼50年史                      
名古屋鉄道100年史                    
名古屋鉄道社史余話                     
東海カーボン75年史                    
社史 東亞合成化学株式会社                 
寒川恒貞傳                         
岡本桜 傳                         
中部電力略史                        
東邦ガス物語                        

東海の百年-三宅兼松                    
maehe.gif (1234 バイト)

tokai2.gif (1472 バイト)

企業情報