木曽川開発の歴史
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 | 今から約100年前、木曽川の流れを止め“暴れ川”の流れをみごとに治めた人物がいました。大同電力(関西電力の前身)の社長として木曽川を開発した福沢桃介です。 全国一円の電力網をはりめぐらした今日の電力産業の基盤が築かれるのは、大正末期のこと。桃介は電源開発とともに、長距離送電体制を築くのにも業績を残しています。 明治半ばに産声をあげた、わが国の電力産業は、このころには電灯だけでなく、動力源として多くの産業の需要にこたえられるまでに成長していました。 近代産業の創出を念頭としていた桃介の雄大な構想が現実のものとなったのです。 | |
| 年号 | 福沢桃介年譜 | |
| 西暦 | 和暦 | |
| 1868年 | 明治元年 | 武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県比企郡吉見町荒子)において父岩崎紀一、母サダの次男として出生。 | 
| 1874年 | 明治7年 | 川越町の小学校に入学 | 
| 1880年 | 明治13年 | 川越町の中学校に入学 | 
| 1883年 | 明治16年 | |
| 1886年 | 明治19年 | |
| 1887年 | 明治20年 | 福沢家へ入籍 | 
| リオデジャネイロ号にて米国へ渡航 | ||
| ニューヨーク州イーストマン商業学校入学、8月同校卒業(5ケ月間) | ||
| 福沢家次男捨次郎にポーキプシーにて面会 | ||
| 父紀一、川越町にて、没す。48歳 | ||
| 1888年 | 明治21年 | ペンシルバニア鉄道会社の見習を始める | 
| 母サダ、川越町にて、没す。48歳 | ||
| 1889年 | 明治22年 | 岩崎桃介帰朝、福沢房と結婚 | 
| 北海道炭礦鉄道株式会社に就職。東京から北海道へ転籍 | ||
| 1890年 | 明治23年 | |
| 1894年 | 明治27年 | 横浜にて石炭貨物受渡中、喀血。 | 
| 大磯に転地中、貯金3,000円の内いくらかを資本に株式相場を始める。 | ||
| 1898年 | 明治31年 | 王子製紙株式会社取締役就任 | 
| 利根川水力電気株式会社発起人総代に選任 | ||
| 1899年 | 明治32年 | 京橋三十間堀で丸三商会経営 | 
| 利根川に水力電気出願。(現在の東京電力佐久発電所) | ||
| 1900年 | 明治33年 | 肺結核再発京都で入院 | 
| 大森八景園下の一軒屋の貸家入居 | ||
| 丸三商会倒産 | ||
| 王子製紙株式会社取締役辞任 | ||
| 1901年 | 明治34年 | |
| 1909年 | 明治42年 | 名古屋電燈株主名簿に初登録 | 
| 1910年 | 明治43年 | 名古屋電燈定時株主総会において取締役に当選 | 
| 木曽川水力の開発調査に着手 | ||
| 1912年 | 明治45年 | |
| 愛知電気鉄道株式会社取締役社長就任 | ||
| 名古屋電燈社長就任 | ||
| 1917年 | 大正6年 | 賤母発電所起工 | 
| 1918年 | 大正7年 | 大桑発電所工事開始 | 
| 1919年 | 大正8年 | 賤母発電所(12,600kw)竣工 | 
| 1920年 | 大正9年 | 木曽電気興業、日本水力、大阪送電を合併して大同電力株式会社と改称、取締役社長就任 | 
| 1921年 | 大正10年 | 木曽川須原発電所・大阪送電線路着工 | 
| 1922年 | 大正11年 | 桃山発電所起工 | 
| 1923年 | 大正12年 | 桃山発電所(23,100kw)竣工 | 
| 読書発電所(40,700kw)竣工 | ||
| 1924年 | 大正13年 | 落合発電所起工 | 
| 大同電力外債募集のため、アメリカ合衆国へ出張 | ||
| 1925年 | 大正15年 | 帝国劇場株式会社取締役会長就任 | 
| 落合発電所(14,700kw)竣工 | ||
| 1927年 | 昭和2年 | 勅撰議員を辞退 | 
| 1928年 | 昭和3年 | 勲三等旭日中綬章うける | 
| 事業界から引退を声明 | ||
| 1937年 | 昭和12年 | 渋谷の本邸で2月15日永眠 | 
| 多摩墓地に埋葬 70歳 | ||



