木曽川開発の歴史

木曽川history part3

開発会社の変遷と木曽川の電源開発 その1

 日露戦争後の急速な経済拡大によって電力需要が急増したこと、またその後の反動不況で各種生産業者が原価圧縮を図らざるを得ない状況の中、石炭火力に比べ比較的低廉であった水力発電への期待が経済界を中心に一層高まり、時代は「水主火従」時代へと変貌を遂げていきます。
 中部地方での、電力供給の中心を担っていた名古屋電灯と、これをライバル視し水力発電開発を足がかりに対抗しようとした名古屋電力との吸収合併の経緯については先に触れましたが、当時、名古屋電灯を常務取締役として率いていたのが「電力王」福沢桃介でした。

・一河川一会社主義
 名古屋電力は八百津発電所の建設からもわかるように駒ヶ根(後の寝覚~大桑)地点、田立(後の読書、賤母)地点など木曽川各所において水力開発の準備を進めており、吸収合併した名古屋電灯がその水利権をもって引き続き新地点の開発を計画していました。桃介は「一水系の開発、帰属を一社に委ね総合的な水力開発に資する」という「一河川一会社主義」の考え方を持論とし木曽川開発を進めようとしていました。この考え方は「潮流主義」と合わせ後の関西電力東海支社発足の礎となったものですが、その前に「川狩り」と「流木」という解決しなくてはならない大きな問題が立ちはだかりました。

・川狩り、流木問題の解決
 桃介自らが流木問題の解決に奔走した結果、当時御料林を所管していた帝室林野局との間で「木材搬出の森林鉄道を敷設する」ことを条件に解決が図られました。
 その背景として川流しによる方法では「輸送量に制限があり、木材需要の急増に追いつかない」「洪水などによる損失が多い」「国鉄の線路が川沿いにも及んできた」等の、輸送方法の陸送への転換の必要性が考慮されたことと、何よりも電気の必要性、水力発電の将来性が認識されてきたことも見逃せない理由の一つでしょう。また、この問題の解決により大ダム構想が現実のものとなり、桃介の代表的な事業である大井ダム建設の足場固めが図られたとも言えるでしょう。 

川狩り
当時の川狩りの模様

・「川狩り、流木問題」とは
 当時の木曽川流域の産業や経済的にも大きなウェイトを占めていた木曽御料林の木材搬出方法に係る問題。御料林から伐採された木材は支流に落とされ木曽川の流水で八百津町まで運ばれ、そこで筏に組まれ名古屋市や伊勢方面まで運材されていました。(川狩り)
 明治末期(1910年代前半)頃に出願された水力発電方式はいずれも「水路式」で、それすら流材の支障とならない程度の水量に制限されており、ましてや「ダム」は流路をふさぐとして許可されていませんでした。(流木問題)

・名古屋電灯~木曽電気興業時代
 「川狩り」等の問題解決によっていよいよ本格的な木曽川水力開発の準備が整いました。
 桃介は1914年(大正3年)に勃発した第1次世界大戦で需要が急増していた鉄鋼に着目し名古屋電灯社内に製鉄部を設置、電気製鉄に関する研究および生産を開始しましたが「川狩り」等の問題決着を機に木曽川水力開発拡大の見込みが立つや、製鉄事業と水力開発部門を分離、水力開発を担う「木曽電気製鉄株式会社(翌年木曽電気興業に改称)」を設立し木曽川水系の本格的開発を開始しました。

森林鉄道
森林鉄道による木材搬出

 木曽電気興業時代の1919年(大正8年)には賤母発電所(1~3号機)が竣工しています。この発電所は、木曽川で最初に本格的えん堤を設けるとともに様々な地域への配慮が行われた発電所でした。
 発電所付近はもとより取水口などにも種々の樹木を植えて景観保護に努め、今も桜の名所として地元の方々を楽しませている賤母公園の造成など、現在の「地域共生型発電所」にも通ずる画期的な発電所と言えるかもしれません。

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