事業所・関連施設

越前若狭探訪

越前若狭探訪

納田終(のたおい)薬師堂につながる石王丸(いしおうまる)の物語 野鹿(のか)の滝の伝説〈おおい町〉

野鹿の滝(おおい町)地図

野鹿の滝の下流の渓流沿いに設けられている遊歩道
▲野鹿の滝の下流の渓流沿いに設けられている遊歩道

 おおい町名田庄納田終(のたおい)の人里を離れ、森の息吹を感じながら野鹿(のか)谷の林道を奥へ進む。小浜湾に注ぐ南川の源流部、標高約350mに位置する野鹿の滝。落差31mは若狭で最大級、水量も豊富だ。
 若狭有数の美しい滝として知られる野鹿の滝は、古い伝説を秘めている。
 この話に登場する石王丸(いしおうまる)は、平安中期に奥州で一大勢力を誇った豪族・安倍貞任(あべのさだとう)の子孫とされる人物。源義家(通称八幡(はちまん)太郎。源氏が東国で勢力を伸ばす基盤を築いた人物)との戦(いくさ)に敗れた石王丸は、難渋(なんじゅう)の末、野鹿の滝にたどり着いた。すると、白鹿に化身した薬師如来が滝つぼから現れ、石王丸に逃げ道を教えたという。

古い伝説を秘めている野鹿の滝
▲古い伝説を秘めている野鹿の滝
野鹿谷の林道を約2.4km奥へ入った所に立てられている案内板。ここから野鹿の滝へ下りる道が取り付けられている。

 ▲野鹿谷の林道を約2.4km奥へ入った所に立てられている案内板。ここから野鹿の滝へ下りる道が取り付けられている。

 野鹿谷にほど近い片又谷(かたまただに)に長く暮らした松村治郎太夫(じろだゆう)家が代々伝えてきた『薬師如来縁起』には、さらに現在の納田終薬師堂へとつながる物語が綴られている。
 石王丸は、追っ手から逃げ延びて片又谷に隠れ住んだ。ある夜、夢の中で「我は安倍貞任が信心し、安倍家代々を護(まも)ってきた薬師如来瑠璃(るり)体である。南方の高い滝の上にいる」とのお告げを聞いた。石王丸は、野鹿の滝で瑠璃色の光を放つ三つの玉を見つけ、片又谷に持ち帰って薬師如来に納め、1187年(文治(ぶんじ)3)、寺堂を建てて増福寺(ぞうふくじ)と名付けた。

 その頃、片又谷には温泉が湧き出ていて、増福寺は「温泉寺」と呼ばれ、薬師参りを兼ねた湯治客で賑わった。しかし、それから百年ほど後に寺は焼け、温泉はたちまち冷水に変わったという。
 その後、増福寺は片又谷から川下の白矢(しろや)(屋)に移った。寺はその後も火災に遭い、いつしか廃寺となったが、仏像は焼けても瑠璃玉は失われることなく、現在の納田終薬師堂(福井県指定文化財)に至っている。
 地元の人々によって守り継がれてきたこの茅葺(かやぶき)の薬師堂は、棟札(むなふだ)の写しから江戸初期の1617年(元和(げんな)3)の建築とみられ、秘仏として薬師如来〔1572年(元亀(げんき)3)の作〕などを祀る。薬師堂は、2009年(平成21)から2年に及ぶ保存修理を実施し、竣工翌年の2011年には、秘仏のご開帳が執り行われた。

江戸初期に建てられ、今日まで守り継がれてきた納田終薬師堂
 ▲江戸初期に建てられ、今日まで守り継がれてきた納田終薬師堂

野鹿の滝(おおい町)地図

【参考】『わかさ名田庄村誌』(名田庄村・1971年発行)、『薬師如来縁起』(松村治郎太夫家蔵)

越前若狭のふれあい定例号に関するご意見・ご希望はこちらから

企業情報