木曽川開発の歴史

木曽川history part2

開発会社の変遷と木曽川の電源開発 その3

・三浦調整池の建設
 大同電力は、順調な水力開発によって供給力を高めていたのですが、木曽川の水量平準化のため夏場の渇水期には使用水量制限を受け発電出力低下を招いていました。これを避けるべく流量調整を目的とした三浦貯水池設置の申請が1929年(昭和4年)に行われ、これに遅れること6年後着工の運びとなり、1942年(昭和17年)に日本発送電株式会社によって竣工しました。
 水利権の出願は日本電力(後述)との共願で行われましたが、長野県は、既に木曽川に多くの発電所と水利権を持ち下流に大きな影響を及ぼすとして大同電力に水利権を与えました。ここでも桃介の信念である「一河川一社による開発」と「木曽川総合開発による高度活用」の考え方が認められる結果となったのです。

・「五大電力」の市場独占
 大正末期、電気事業は資本金の面でみると銀行、紡績、鉱業などの国内主要産業を押さえ名実ともに日本を代表する巨大な産業へと発展していましたが、昭和初期の世界恐慌などによる未曾有の経済不況は電力需要増加の鈍化・停滞を招き、電力過剰に陥った電力各社は他社供給区域に侵入し、熾烈な顧客競争を引き起こしました。
 この過程で更なる会社淘汰が進み「五大電力」と呼ばれる東京電灯・東邦・大同・宇治川・日本の各電力がその豊富な資金力を背景に市場を独占していきました。
 桃介が設立に尽力した大同と、発足に至る過程やその後の水力開発で密接な関係となる東邦の二社は、卸供給を主としていた大同と、電力小売りに力を入れる東邦とですみ分けができていたことや桃介と電気事業推進の盟友であり東邦の実質的な経営者であった「電力の鬼」松永安左エ門との友情から比較的良好な関係が維持されていたようです。

・電力の国家管理と日本発送電株式会社の設立
 各社による過剰競争は、設備の不経済な重複投資や原価を無視した料金値下げなどを引き起こし、結果、経営悪化による料金値上げやサービスの悪化をもたらしました。このことから熾烈な市場獲得競争とそれによる弊害が指摘され、電力統制論が提唱され始めたのですが、これに拍車をかけたのが昭和初期からの軍部の台頭でした。
 1931年(昭和6年)の満州事変勃発などによって軍需産業に不可欠な電力を国家統制し基盤強化を図るべく、より強力な「国営論」として官界からも提唱されはじめました。
 1935年(昭和10年)に内閣調査局が内閣審議会で電力国営案を提案、2年後には電力国家管理要綱案を閣議に上程しました。この骨子は発送電事業を国営とし、発電水利は政府専用とするものでした。
 種々議論は行われたものの1938年(昭和13年)電力国家管理法と発送電一貫事業を行う国策会社「日本発送電株式会社」が承認され、13年間に亘る電力の国家管理・戦争という時代へと突入していったのです。

目次へ戻る  次のページへ進む
東海支社HOME
企業情報