木曽川開発の歴史

 

木曽川history part7

丸山発電所の開発

 当時、我が国最大の容量を誇る丸山発電所は、昭和29年、桜の開花と時を合わせ完成しました。この大事業は当社創立後間もない、昭和26年5月に計画されたのです。
丸山発電所竣工を祝って森寿五郎副社長は、「この発電所が当社によって、短期日に完成したことは我々の喜びだけでなく、それによってより豊かな、より質のよい電力の配分を受けられる全供給区域の需要家皆さまの喜びであるはずである」と述べています。
電気事業は「水主火従」の時代であり、渇水期の電力制限を解消することが、電力再編成の目的でもありました。丸山発電所は、見事この目的を達成したのです。

建設前の丸山ダム地点

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 丸山発電所建設の最初の計画は、昭和2年の大同電力時代にさかのぼります。
昭和2年12月、丸山水力地点は、錦織水力地点、二股水力地点と合わせて、岐阜県知事より水利権の許可が与えられました。しかしながら、経済界の不況と、当時は東邦電力の所有であった八百津発電所の兼ね合いから、建設計画は見送られることとなったのです。この後大同電力では、二股水力地点と丸山水力地点を合わせ、一地点とする変更計画を行い、また錦織水力地点は、下流の兼山水力地点にその計画を包含されることとなりました。

大同電力時代の「木曽川開発鳥瞰図」

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 時は移り、政府は電気事業の整理・統制を強化するために、電力国家管理の方針を定め、昭和14年4月に日本発送電株式会社が発足しました。
丸山水力地点の開発も引き継がれ、昭和14年10月には堰堤箇所のボーリング作業が開始されました。この作業は開発が先行していた兼山水力地点の兼山従業員の一部により進められ、その後約一年半にわたる調査により、満足する結果が得られたので、昭和16年6月に調査班を結成し、実施準備に着手しました。
昭和18年12月には建設所が開設され、工事に邁進することとなりました。
大同電力から引き継がれた計画容量は13万5千kWでしたが、当時は戦争中であり、10万5千kWに規模を縮小し、第一期工事として7万kWを完成することとしました。
昭和19年5月に至って全面的にコンクリート工事にかかろうとしました。ところが戦争のため、主要資材のセメント・鉄鋼類が極度に不足し、工事を停止せざるを得ませんでした。
この時の出来高は、仮設備70%、本体工事2.5%でした。
 丸山発電所建設は、戦後の我が国における画期的な大工事でした。
日本発送電により工事着手され、太平洋戦争勃発後に工事中止された水力発電所は多く、丸山発電所もその一つです。
昭和19年5月、工事が中止された時の総合進捗率はわずか8パーセントで、そのほとんどは仮設備の工事でした。
この状態で引き継がれた丸山発電所は「当社になってから新しく建設された発電所」といえるのです。
昭和24年6月、工事再開命令が出されましたが、建設省から木曽川の洪水調節、農林省から水源としての利用について申し入れがあり、思いがけない事態となりました。
その後、建設省の洪水調節の意向を受け入れることとし、昭和25年12月、建設命令が電力国家管理法最後の命令として発せられました。
しかし、戦後来日していたOCI(海外技術顧問団)からは、ダム洪水吐きの設計変更と発電所位置変更を指示され、これらは未解決のまま日本発送電から当社に引き継がれました。
OCIとの討議内容や、またはOCIの勧告は、設備の簡素化・建設費の低廉化・運転維持費の軽減が強調され、日本の従来のやり方とはかけ離れていたようです。当時の関係者は「はじめはちょっとついていけないという感じがあったが、その後説明を聞き、討議を行い、検討を進めるうちに、我々のやり方に経済的数字的の根拠が充分でないものがあり、習慣または勘によっていたことのあるのを感ずるに至った。」と述べられています。
当時の太田垣社長は現地を視察し、ダムについてはOCI勧告を受け入れ、発電所については関西電力案にすることでOCIと公益事業委員会を説得して最終決定を見ました。
電力の需給関係を抜本的に改善するには、大容量発電所の建設が必須であり、かつ戦時中に中断された河川の一貫開発を、新しい構想のもとに発展させる必要があるとした太田垣社長の英断でした。
 工事は、昭和26年9月に着工され、昭和29年2月にダムが湛水、4月に発電所が運転開始となりました。
丸山ダム完成により冬期における木曽川水系のピーク時の出力が一挙に倍加されました。
丸山発電所はダム水路式で出力125MW、ダム高さ96メートル、ダム設計有効貯水容量18220000立方メートル。
本工事の意義は、戦後初の大規模開発として大型機械施工の先駆となったことで、ダムコンクリート打設にはアメリカのジョンソン社製のバッチャープラントが使用されました。
打設速度を速めるため、粗骨材および混合水を冷却してコンクリートの打設温度を下げる大容量冷凍機も使用されました。
また、アメリカのケネディ社の大型骨材クラッシャー、砂の粒調設備などの新鋭機械も使用されました。現在でもダム下流左岸に、骨材プラントの名残を見ることができます。
水車発電機も当時記録的容量であり、1号機は日立製、2号機は東芝製、そして主要変圧器は三菱製といった当時ならではのメーカー分けがなされています。
昭和29年、招かれて丸山ダムを訪れた昭和俳壇の巨星高浜虚子は、その感動を「ダムに鳴く鳥は鴬ほととぎす」「名にし負ふ木曽の春水堰止めて」「ダムを見て今は蛍の蘇水郷」と詠んでいます。  
丸山完成で、木曽川の全落差利用という全国でもまれにみる成果を上げることができたのです。

放流をしている丸山ダム

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