地震発生:失われたライフライン

  • 1.未明の衝撃
  • 2.続出したトリップ
  • 3.崩れ落ちた街で
  • 4.”神話”が消えた瞬間

1月17日 5:46am 停電軒数/約260万軒

1.未明の衝撃

大阪市北区にある関西電力中央給電指令所。24時間休むことなく電気の流れを見張るこの中給では、1月17日未明も、福元久雄指令長以下7人の当直員が勤務についていた。

この年、松の内が明けた頃から、大阪はよく晴れた寒い日が続いていた。16日午後7時の気象予報でも、翌日の最高・最低予想気温は前年比マイナス2℃。ましてや17日は3連休明けの初日だ。連休中眠っていた工場やオフィスも、一斉に動き出す。そこで中給は17日の最大電力を、この年最高の2350万kWと予想し、当初は運休予定だった赤穂発電所1号機と大阪発電所3号機の連続運転を決定。いよいよ到来した「冬ピーク」に備えて万全の体制を整え、一日の始まりを迎えようとしていた。

午前5時46分、突然の激震。福元が「おっ、地震や!」と叫んだ瞬間、グラッ、グラッと大きな横揺れ、続いてドッドッドッと凄まじい縦揺れも加わった。最初の揺れで立ち上がった福元は、必死の思いで指令台につかまり、踏ん張っているのが精一杯だった。

数分後、我に返った福元が系統盤に眼を移すと、重・軽故障を知らせるありとあらゆる警報が鳴り響き、総需要は直前の1270万kWから940万kWにまで落ち込んでいた。続いてランプが点滅し始め、火力発電所が次々とトリップ(停止)。変圧器のトリップ報告も、至るところから入ってくる。警報停止に追いまくられる福元の手はブルブルと震え、他の当直員に「落ち着け!」と叫ぶ声もかすれがちだった。

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2.続出したトリップ

兵庫県尼崎市東浜の尼崎東発電所は、1~2号機(各15万6千kW)を擁する石油火力発電所。前日までボイラ保修作業のため停止していた1号機は、作業も無事完了して起動中、2号機は定期検査後の試運転中だった。

当直員は佐々木益男(発電課当直係長)以下8人と、関電学園実習生の2人。午前5時半過ぎ、1号機の起動が異常なく進んでいることを確認した佐々木は、湯沸かし場でお茶を入れ、中央制御室のデスクへ戻ってきたところだった。

その瞬間、コップの茶がこぼれ、立っていられないほどの激しい揺れに襲われた。初めは何が起きたのか分からなかった佐々木は、二度、三度の横揺れでようやく地震に気づき、「ヘルメットをかぶれ!机の下にもぐれ!」と叫んだ。

同時に1・2号機のボイラ・タービン盤、発電機盤の警報が一斉に発信。それを見た制御員たちが、横揺れのなかフラフラしながら、警報を停めようと制御盤に近づく。佐々木は彼らに「警報は停めなくていいから、何が発信しているか眼で確認せい!」と、必死の指示を送る。その指示に返ってきたのは、「2号機トリップ!」「1号機ボイラ消火!」という大声だった。

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3.崩れ落ちた街で

壁面が崩れ落ちた関西電力神戸支店ビル内

西宮営業所所長の須藤伸一郎は、神戸市灘区の自宅で就寝中だった。突然の衝撃で何がなにやら分からなかったものの、目覚めた時にはすでに、寝床の横に立ち上がっていた。

幸い家族は全員無事だった。「早く外へ出え!」と大声で叫ぶ。全員がパジャマ姿のまま屋外へ飛び出すと、暗闇のなか、あちこちで家族の安否を確かめ合う声が飛び交っていた。

改めて見上げると、崩れ落ちそうになった我が家がそこにあった。隣の家も向かいの家も崩れてぐちゃぐちゃになり、土埃のなかに倒れかけた電柱があった。

近所の人と協力し、家族を近くの学校に避難させている間も、会社のことが気掛かりだった。避難所で家族を次男に託し、一旦長男と家に戻った。被害を免れた自家用車で最寄りの神戸支店へ向かおうとしたが、崩れた家に道路をふさがれて動きがとれない。やむなく長男の運転するバイクにまたがって出発した。

国道2号線から見る被害は凄まじかった。家は崩れ、ビルは傾き、あちこちに火の手が上がる。

阪神電車の高架も、阪神高速道路も倒壊している。そごう百貨店も、新聞会館も、神戸市役所も潰れていた。

午前9時過ぎ、ようやく神戸支店に着いた。ビルの南側一面に液状化の泥が噴き出していた。通用口から中に入ると、数人の社員が走り回っていた。

壁にはいく筋も亀裂が走り、階段のひび割れもひどい。室内ではロッカーが倒れ、書類と事務用品で足の踏み場もなかった。ガラスの割れた窓からは寒風が吹き込み、西の空には黒い煙が立ち上っていた。

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4.”神話”が消えた瞬間

地震は、通信、電気、ガス、水道など、人々の生活を支えるライフラインにも
甚大な被害を与えた。

1995年1月17日午前5時46分、突如関西の人々を襲った兵庫県南部地震──阪神・淡路大震災は、マグニチュード7.3、観測史上初の震度7を記録する大地震だった。

震源地は淡路島北東部(北緯34度、東経135度)。この淡路島側から神戸側へ、東西方向に連なる3つの断層が、わずか10秒余りの間に次々と動いて引き起こされた直下型地震だった。震源の深さが約16kmと浅かったため、急激かつ強烈な破壊力が街を直撃。高速道路の橋脚が倒れ、鉄道の橋げたが落ち、ビルや家屋が至るところで倒壊するなど、阪神地域は壊滅的な被害を受けた。加えて救助活動や消火作業の遅れも災いし、時間を追うにつれ被害は拡大。ついには死者6433人にのぼる大惨事となってしまった。

高度な都市機能が集中する巨大都市直下で起きたこの地震は、通信、電気、ガス、水道など、人々の生活を支えるライフラインにも甚大な被害を与えた。

関西電力では、震源地に近い神戸支店をはじめ、営業所、電力所など多数の建物が被害を受けた。電力設備にも被害は広がり、火力発電所10カ所のほか、48の変電所、38の送電回路、配電線路446回線が損傷。地震直後には阪神地域を中心に、約260万軒が停電する事態となった。

関西には地震がない──そんな“誤った神話”を知らず知らずのうちに信じていた多くの人が、見慣れた街の変わり果てた姿に言葉を失った。

そしてその瞬間から、関西電力の「電力復旧への闘い」は始まった。

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第一日:早期復旧への第一歩