第五日 4700人の力を集めて

  • 1.災害復旧のプロが来た!
  • 2.全国から支援の手
  • 3.ノウハウを結集する
  • 4.進む仮復旧
  • 5.山場を越えて

1月21日 停電軒数/約5万軒

1.災害復旧のプロが来た!

1月21日、土曜日。地震発生後初めての週末を迎えたこの日も、被災地では休日返上の電力復旧作業が続いていた。

そのなかに、中国電力岡山営業所から駆けつけた河田副長以下12人の姿もあった。

河田副長は1982年7月の長崎大水害をはじめ、台風などによる災害時の復旧経験も豊富なベテラン配電マン。震災の前年、集中豪雨により伊丹空港が水害を受けた際にも、応援部隊として来阪していた。

そんな河田にとっても、今回の震災による被害は想像を絶するものだった。18日朝、神戸に入って被害を目の当たりにした時は「こんな光景を見たのは初めて……」と言葉を失った。

それでも早速、高圧発電機車で兵庫区へ向かい、病院への緊急送電を開始。被災者が次々に運び込まれるかたわらで、ひたすら電気を送り続けた。その日は発電機車用の軽油がなかなか手に入らず、関係者が明石方面まで走り回る一幕もあった。翌19日、救援部隊から油が届き、無事発電を続けられるようになった。ようやくホッと一息ついた河田に、入院患者の一人が手を合わせた。「少しでもお役に立てた」。そう思うと、河田の疲れは吹き飛んだ。

兵庫営業所の山下栄三は、そんな河田とともに働く機会に恵まれた。優れた統率力や手際のよい作業に感心した。「困っている関電さんに迷惑をかけられない」と、生活用具を持参していたことにも頭が下がった。河田の働きに学ぶことは実に多かった。

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2.全国から支援の手

他電力会社からの応援

関西電力が他電力会社へ復旧応援を要請したのは17日午前10時。各社はその要請に応えて、あるいは、要請を受ける前からただちに動き始めた。北は東北電力から南は九州電力まで、各社の応援部隊が関西をめざし(北海道電力・沖縄電力・電源開発(株)からも協力の申し出を受けたが、関西電力は地理的条件などを考慮し待機をお願いした)、早い者は17日夜半~18日未明にも戦列に参加。発電機車(計52台)による病院や避難所への緊急送電を担当したほか、様々な資機材や生活物資も差し入れた。さらに電力各社は、被災地への義捐(ぎえん)活動も迅速に展開。計3億8000万円の義捐金のほか、水や食料、仮設トイレなどを提供した。

西宮営業所にも20日過ぎ、中国電力から給水車が、東京電力からは仮設トイレが届けられた。それらが届くまでは須藤伸一郎所長以下全員、着の身着のまま、顔も手も洗えず、トイレもままならない日々だった。この苦境を助けてもらったことは決して忘れない──。須藤はただただ感謝の思いで一杯だった。

三宮営業所長の丸野三明も、他電力の充実した災害対応体制に感服していた。対応の迅速さ、発電機車の多さ……。なかには災害復旧対応用車両(無線連絡装置や仮眠スペース、仮設トイレなどを設置した車両)で駆けつけた会社もあった。「こういう時はお互いさまですから」。控えめに、かつ精力的に動く彼らに、丸野は何度も頭を下げた。

7電力会社からの応援は、計326人に上った。

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3.ノウハウを結集する

支店ビルに集結する応援部隊の車両

関西地域の電力供給をともに支える関西電力グループ企業をはじめ、協力会社の応援部隊も復旧作業の大きな力となった。

このうち、きんでん、関西テック、関電興業などのネットワーク技術関連会社では、関西電力と同様、地震発生直後に対策本部を設置。関西電力からの復旧応援要請を受け、震災当日から迅速な復旧作業にあたった。また各社では、食事や宿泊場所、風呂、トイレなどの兵站活動も独自に展開。関西電力の負担を大幅に軽減してくれた。

例えばピーク時には2000人以上の復旧要員を投入したきんでんでは、西宮市にある「きんでん学園」を作業員の生活拠点として活用。他電力会社からの応援部隊も受け入れた。同時に震災を免れた神戸市内の社員寮は、付近住民の避難所として開放。約200人の「仮の住まい」となった。

このほかにも関西電力には、関係会社や取引企業・団体から応援の申し出が相次ぎ、資材運搬、被害状況調査、被災者支援など、各社の技術・ノウハウを生かして復旧作業を助けた。

関西電気工事工業会が行った「屋内応急送電作業」もその一つだ。被災家屋に送電する際、関西電力でも事前の安全確認には万全を期していたが、同工業会では「お客さまへの早期送電に協力したい」と、屋内電気設備の点検や小工事の実施を申し出。21~23日の3日間、工業会加盟の作業員474人が参加し、約2万4000軒への応急送電に貢献した。

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4.進む仮復旧

地中送電線の復旧作業

発電所や変電所、送電線などの電力設備も、着実に復旧しつつあった。

関西電力の発電設備のうち今回の地震で被害を受けたのは、火力発電所10カ所、計20ユニット。地震発生直後には、うち12ユニットが自動停止し(残り8ユニットは運転停止中だった)、176万kWの供給支障が生じた。

しかし姫路第二発電所1・3・4号機など4ユニットは主要設備に被害はなく、当日中に運転を再開。残る8ユニットも損傷カ所の修理が進み、1月20日時点で4ユニットが、27日までには全8ユニットが仮復旧した。

変電所の仮復旧も迅速だった。変電設備に被害を受け、供給支障が発生した18変電所(軽微な被害のものを含めると48カ所)のうち、大半は他系統への切替操作などによって復旧。最も被害の大きかった葺合変電所でも、移動用変圧器の設置による応急復旧を行った結果、18日中には全変電所で供給体制を整えることができた。

架空送電線は全1065線路のうち、23線路に被害を受けた。このうち有馬線など、震源地に近い11線路では、鉄塔の損傷や電線断線などの被害が見られたが、部材補強や仮鉄柱設置により、19日までに仮復旧した。一方、全1217線路のうち102線路に被害を受けた地中送電線は、神鋼灘浜線が送信不能となったが、別ルート設置の応急措置により21日、仮送電を開始した。

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5.山場を越えて

21日、それぞれの現場で電力復旧にあたった作業員は、復旧作業期間最多の6148人。ネットワーク技術(配電)部門だけでも4701人に上った。全国の電力会社仲間、頼もしき協力会社の面々……。応援部隊の力も得て、関西電力はようやく大きな山場を乗り越えようとしていた。

同日午後5時、西宮営業所管内では、全配電線への応急送電を完了。送電可能なお客さますべてに電気をお送りする体制を整えた。

神戸電力所長の川越英二は、正午発の監視船──往路でも利用した海底ケーブル監視船──に乗って尼崎まで引き返し、伊丹変電所の復旧作業を見届けた後、豊中市の自宅に戻った。

4日ぶりのわが家。まずは風呂に入った。蛇口を捻れば水とお湯が出て、水洗トイレも使える生活がまるで天国のようだった。現代生活は贅沢で、案外脆弱(ぜいじゃく)なものだな……。ほんのひとときの休息の中で、川越はふとそんなことを思った。

21日午後3時現在、関西電力全域の停電軒数は約4万軒。

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第六日:縁の下を支えた2万人