ルポ│ともに電気のある「あたりまえ」を切り拓く
ACTIVE JAPAN
2026.8.14

ルポ│ともに電気のある「あたりまえ」を切り拓く

戦後の急速な経済復興に伴う深刻な電力不足解消のため開発を進めた黒部ダム・黒部川第四発電所。2度のオイルショックを受け、エネルギー安定供給を実現するため進めた原子力発電。関西電力とともに電気のある「あたりまえ」の暮らしをつくってきたパートナーを訪ねた。

くろよん建設最大の難工事、大町トンネル工事から受け継ぐDNA——熊谷組

黒部ダム
殉職者の功績を今に伝える慰霊碑

殉職者の功績を今に伝える慰霊碑

世紀の大工事といわれた黒部ダム・黒部川第四発電所(通称“くろよん”)建設における最大の難工事・大町トンネル。大破砕帯の突破は映画「黒部の太陽」にも描かれた。1963年6月のダム完成時には地元の小学校講堂に子供たちが集まり、テレビ中継を見守った。当時小学5年生だった大田弘さんも、その中にいた1人だ。子供心に土木の力に圧倒されたのと同時に、同級生の父親が工事で亡くなったと知りショックを受けた。当時、「黒部で怪我はない」と言われていた。つまり怪我ではすまない危険な現場だったということだ。作文に「ダムを安全に造る技術者になる」と夢を綴り、長じて“くろよん”の工事を手がけた熊谷組に入社した。

「トンネルの熊谷」として急成長した熊谷組だが、バブル崩壊とともに経営危機に。
39歳で本社再建チームに指名召集された大田さんは「熊谷組の再建には、不可能といわれた破砕帯を突破した当時に立ち返るしかない」と考え、“くろよん”で熊谷組笹島班を率いて現場の指揮をとった笹島信義氏に話を聞きに行った。大量の地下水と土砂で一向に掘り進められない破砕帯に阻まれ、現場の士気は下がるばかり。身を案じた家族からの電報を受け、山を下りる作業員も出てきた。撤退論も出るなか、風向きを変えたのは当時の関西電力社長・太田垣士郎氏の視察だった。いつ崩落するかもしれない危険な現場。太田垣氏は「ずっと奥でたくさんの人が働いているじゃないか。責任者である私がなぜ行けないんだ」と周囲の制止を振り切って坑内へ。凄まじい勢いで流れ出る湧水を見ながら、案内役を務めた笹島氏に「どうかね。掘れそうかね」と聞いた。笹島氏は「なんとかなるでしょう」と即答する。そしてこの答えを受け、太田垣氏は工事続行の決意を固めたという。

水抜きや薬剤注入などあらゆる手を尽くし破砕帯を突破した

水抜きや薬剤注入などあらゆる手を尽くし破砕帯を突破した

視察から数日後、笹島氏のもとに一枚の葉書が届く。「日本の土木の名誉にかけて頑張ってください。ご健闘を祈ります。宇奈月にて 太田垣士郎」——笹島氏がこの葉書を作業員の前で読み上げ鼓舞すると、現場の雰囲気は一転。見違えるほど士気が高まり、ついに破砕帯を突破する。「トップダウンとは、トップが現場に降りていくこと」と大田さんは言う。太田垣氏のトップダウンの決断が、発注者の関西電力、協力会社の熊谷組、現場を担当する笹島班に一体感をもたらし破砕帯突破につながった。

三陸鉄道南リアス線の復旧作業

三陸鉄道南リアス線の復旧作業

三陸鉄道南リアス線

三陸鉄道南リアス線

笹島氏は、大町トンネル作業員4,681人の名簿を財産として大切にし、それぞれの家族のことまで覚えていたという。作業員は「数」ではない。個性を持つ個々人が集まり、努力が積み重なって厳しさを突破していく。最前線の作業員一人ひとりのことがわかっていないと指揮はできない。経営危機など大きな壁にぶつかる度に大田さんは、とにかく人に会い、現場を見ることを大切にしたという。「太田垣さんが制止をはねのけ現場に向かったように、笹島さんが作業員全員を覚えていたように、現場に向かい人と会い、最前線で働く人と話をする。そうやって思いや情熱を伝えてきた。教えてくれた“くろよん”は私の人生の師だ」
“くろよん”で発揮された現場主義、不撓不屈の精神は、今も熊谷組に受け継がれる。欧州で開発された新しいトンネル工法を導入するにあたり、従来の工法と異なり危険予知が難しいと協力会社から反対を受ける。熊谷組では安全性の検証を重ね、データを示すが同意は得られなかった。そこで、熊谷組の社員がトンネル最前線で作業し指揮すると約束し技術導入に至った。「土木工事は人の命に関わる。新技術開発ではひるまない挑戦心と同じくらい謙虚さと慎重さが不可欠」と大田さん。
東日本大震災後の三陸鉄道南リアス線の復旧では、協力会社を含め約2,500人が集まり、早期復旧に尽力。集まった作業員のなかには自身や家族が被災した人もいた。皆の力を集結し、全線にわたって壊滅的な被害を受けた南リアス線は、2013年に部分運転を再開する。再開を記念する電車に乗り込むと、ホームに集まった地元の人の歓声と大漁旗が目に飛び込んできたという。「運転再開を待ちわびる地元の方々の思いに応え、早期復旧にこぎ着けることができた。国の非常事態に現場に向かい、人の暮らしを守るために力を注ぐ。破砕帯突破のDNAは生きている」
“くろよん”の完成から60年以上。歴史に残る大工事だが、土木仕事の価値は大きさではないと大田さん。「仕事が人々を幸せにしていると感じることが土木の醍醐味」
今日も“くろよん”がつくった電気が人々の暮らしを支えている。

大田 弘
大田 弘 おおた ひろし
熊谷組 元代表取締役社長
1952年富山県宇奈月町生まれ。75年熊谷組入社、土木事業副本部長、経営企画本部長等を経て2005 年代表取締役社長。13年代表取締役会長、15年社友。日本土木工業協会副会長などを歴任。
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