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CHALLENGE 関西電力の挑戦

1951年の発足以降、
関西電力はありとあらゆる挑戦をしてきた。
そこには連綿と引き継がれてきた
「関電スピリッツ」があった。

1951年の発足以降、関西電力はありとあらゆる挑戦をしてきた。そこには連綿と引き継がれてきた「関電スピリッツ」があった。

CHAPTER.01くろよん建設プロジェクト

THE TIMES時代

高度経済成長期を支えるための電力不足が社会問題に

冷蔵庫、洗濯機、トースターなどが登場し、電気元年と名づけられた1953年。家電製品の登場に明るい新時代の到来をはっきりと実感した、この50年代半ば以降は高度経済成長期と呼ばれ、日本経済の大きな転換期となった。産業界もかつてない活況となり、鉄鋼業、非鉄金属製造業、化学工業など、膨大な電力を消費する産業が、増産に継ぐ増産を重ねるようになり、電力不足が社会問題となる。
そのため、関西圏の電力供給を担う関西電力にとっては、この高度経済成長時代を支えるべく、新たな発電所を建設して電気を増産することが大きな課題となっていた。

EPISODE関電スピリッツを見せたエピソード

前例のない大規模ダムの建設に使命を持って挑む

そこで私たちは当時主流だった火力発電ではなく、発電量の調整がしやすい水力発電を供給の基盤とすることに決めた。ただ、関西圏の電力供給の調整を担うために必要な電力は半端な量ではない。大規模な水力発電所が必要となる中、私たちは社運を賭して、25万8000kWを出力できる黒部川第四発電所、通称“くろよん”の建設を決断した。
しかしながら、険しい黒部の峡谷に、堤の高さ186m、堤最上部の端から端まで492m、計画上の貯水量1億6000万m³の大規模なダム・発電所を建てるのは容易ではなく、マスコミにも取り上げられるほどに工事は難航する。その中でも関西電力は挑戦を続け、3700万ドル(133億2000万円)の資金調達や、地質学者・海外の技術者を招いてのトンネル掘削、高性能な機械の導入など、あらゆる手を尽くして工事を進行。1963年、工事開始から7年の時を経て竣工に至った。

IMPACT ON SOCIETY社会に与えた影響

25万kW以上の発電量で関西圏に安定した電力供給を実現

“くろよん”は発電を始めた1960年から徐々に出力を増加させ、関西のお客さまへの電力供給を開始。命がけで挑んだこの建設プロジェクトは、今もなお関西の、ひいては日本の経済を支える役割を果たしている。
そして何よりもこのプロジェクトは、関西電力の全社員にとって、電力の安定供給の難しさと重要性を痛感させるものとなった。“くろよん”建設の経験は、後世まで脈々と受け継がれる関西電力の「関電スピリッツ」の礎となっている。

CHAPTER.02日本初の原子力発電

THE TIMES時代

「原子力の平和利用」の第一歩として原子力発電に注目が集まる

1953年12月にあった、アメリカのアイゼンハワー大統領による演説「Atoms for Peace」。これを契機に、日本では1954年度の政府予算に原子力予算を初めて計上。政府と産業界が連携をとりながら、原子力に関する調査や研究、その利用に向けての準備が進められた。
1955年にはアメリカ政府が日本政府に対し、実用原子炉建造に向けた技術援助を提案。翌1956年には原子力行政の最高審議機関となる原子力委員会を発足させるなど、この時代で一気に「原子力の平和利用」に対する取組みがスタートしている。
1957年には、電力各社が出資する日本原子力発電株式会社が設立されるなど、日本国内でも原子力発電に大きな期待がかけられていた時代だった。

EPISODE関電スピリッツを見せたエピソード

同業界国内初の「原子力部」設置でいち早く調査研究できる体制に

関西電力は、官民一体となった原子力発電開発体制の整備推進を積極的に担う一方、自社内でも原子力発電に関する取組みを進め、1957年には日本の電力業界の先陣を切って社内に「原子力部」を設置。原子力発電所の設計や建設技術を本格的に調査研究する体制を整えた。
特に原子力発電所の最重要課題となる「原子炉の炉型」については、既存技術に満足することなく、粘り強い研究を続けた。結果、従来の炉型に比べて総コストは低減しながら、管理も容易になる手法を考案し採用することとなった。より大きく社会に貢献できる道を求めて、前例のないことでも努力する。そんな関西電力の姿勢が貫かれたエピソードだ。

IMPACT ON SOCIETY社会に与えた影響

大阪万博への供給をはじめ関西の電力需要を支える存在に

1966年8月、商業用原子力発電所の建設・運用としては日本初だった美浜発電所の造成工事は、1970年にある「万国博」への送電に向けた、失敗が許されないプロジェクトでもあった。そのため、環境対策や安全問題、耐震性の確保には何度も実験を行い、地震などの災害発生時にも機器設備の機能が十分維持されることを確認。発電所の基礎部分の施工などは、念には念を入れた大がかりな建設となった。
そして、1970年8月8日午前11時過ぎ。「試送電成功」の知らせと同時に、約1万kWの「原子の灯」は万国博会場に届き、お祭り広場の電光掲示板を通じて一般の来場者たちにも知らされた。この後も「原子の灯」は万国博開催の期間のみならず、関西の電力需要を満たすうえで、大きな役割を果たし続けることになる。

CHAPTER.03再生可能エネルギーの導入に向けて

THE TIMES時代

「低炭素社会の日本」を目指しCO2排出量削減の流れが加速

2008年、当時の福田首相が日本記者クラブにおいて、「低炭素社会・日本をめざして」と題したスピーチを行った。省エネの推進とともに、原子力発電や再生可能エネルギーなど、CO2フリー(CO2排出量がゼロ)の電源比率を50%以上に引き上げることによって、2020年までに、2008年比で14%のCO2排出量削減を実現しようというものだ。 特に太陽光発電は重視され、2020年に10倍、2030年に40倍という目標値が示された。達成に向け、住宅へのソーラーシステム設置のさらなる普及を目指す一方で、1000kWを超える大規模出力の太陽光発電所、いわゆるメガソーラーの建設を全国で展開するという施策も明確に提言された。

EPISODE関電スピリッツを見せたエピソード

国策となる前から先陣を切ってCO2フリー電源の推進を進めた

関西電力はいち早くメガソーラー建設に向けた検討を開始していた。“くろよん”、“美浜原子力発電所”と、大きなプロジェクトの度に発揮されてきた関西電力のパイオニア精神。特にCO2フリー電源の代表格である原子力発電においては、日本初の営業運転を成功させて以来、常に業界をリードし続けている。
この関電スピリッツを表すがごとく、政府のビジョンが打ち出されてから3週間も経たないうちに関西電力は、「“堺市臨海部におけるメガソーラー発電計画”の推進について」をテーマに記者発表を行った。かねてから、メガソーラー建設を検討するなかで、低炭素型のまちづくりを目指す堺市の方針とも合致することから、同業の先陣を切って協議をスタートさせていたのだ。最終的に両者は「メガソーラー建設を協同で推進する」という官民連携のスキームに結実。北海道洞爺湖サミットを控え、ますます地球環境問題への意識・関心が高まっているタイミングでの発表となった。

IMPACT ON SOCIETY社会に与えた影響

後に続く事業者の見本となり太陽光発電の普及拡大に貢献

こうして、メガソーラー建設は2009年12月に着工、2010年10月に第1期分、2011年3月に第2期分、同年9月に第3期分が完成。合計10MWという当時国内最大の出力を持つメガソーラーが営業運転を開始した。甲子園球場の約5倍の敷地に、約7万4,000枚の太陽電池パネル。約3,000軒の一般家庭の需要をまかなうパネルの並びは、壮観の一語に尽きる。
現時点では出力変動が激しいという弱点はありながら、年間約4,000トンのCO2削減が実現しているメガソーラー。後に続く事業者の見本となるよう、関西電力の未来に向けた種々の検証が、もうすでに始まっている。