江戸の防災・減災対策
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2023.10.31

江戸の防災・減災対策

台風、豪雨、地震など毎年のように自然災害に見舞われる日本だが、これは近年に限ったことではなく、江戸時代も各地でさまざまな災害に襲われていた。江戸幕府や藩主はどんな災害対策を行っていたのか。三重大学の藤田達生教授に話を聞いた。

江戸時代の災害対策は?

江戸幕府では被災した人々を収容する仮小屋の設置、炊き出し等を行うほか、各藩に対しては復旧にかかる費用を貸し出していた。災害が起こるとすぐに藩が調査に乗り出し、幕府に報告、被害状況に応じた見舞金が出た。
江戸時代には、都市計画でも防災を意識するようになった。戦国時代、城下町では城に攻め込まれないよう、枝道や行き止まりをつくっていたが、火災時に逃げやすいようまっすぐに整備するほか、延焼を防ぐため道路を拡張した「広小路」や飛び火を防ぐ空き地「火除地(ひよけち)」などを配備。瓦葺や土蔵造りを推奨するなど不燃化を推進した。
洪水対策にも江戸初期から着手。土砂留め奉行を置き、河川周辺の藩が協力して見回り、治水工事を行った。こうした藩を超えた防災システムが出来上がっていたことが江戸時代の特徴で、藩主は国家官僚として、自分の藩だけでなく、日本全体を守る視点が求められた。

各藩の特筆すべき取り組みは?

加賀藩では、飢饉をきっかけに領内に困窮者救済を目的としたお救い小屋を設置。食事を供するだけでなく職業訓練を行った。これは非常時だけでなく平時にも機能する領民のセーフティネットだった。
安政伊賀地震に見舞われた藤堂藩(伊勢・伊賀などで32万石を領した外様大名)では、被災当日に仮小屋を設置し、炊き出しや配給を行うほか、医師も無料で派遣。民家の再建も援助し、建築には被災した人々を当てて当面の失業対策とした。安政伊賀地震の復興予算は伊賀領だけでも約2万5千両と藩の年間収入の7割を超え、不足分は京や大坂の豪商からの借り入れに頼った。

藩が傾くほどの支援だが、財政立て直しはどのようにした?

質素倹約に努めるとともに、空き地を利用しミカンや柿、梨、ぶどうなどの果樹、藩有林でシイタケを栽培。果物や野菜を大坂などの巨大市場で販売し、利益獲得をめざした。

江戸幕府からの支援はなかったのか?

安政伊賀地震の起きた江戸末期は災害が頻発し、幕府の財政が逼迫。藩主は幕府からの支援をあてにできず、独自の対策を講じる必要があった。
経済的な自立の流れは、全国の藩に及び、薩摩藩は砂糖の販売、会津藩は朝鮮ニンジンの栽培に成功し、大きな利益を上げた。
江戸時代は、災害時の生活保障の手厚さが信頼関係につながり、年貢の安定的な確保につながっていた。ところが江戸末期には相次ぐ災害による財政逼迫に伴い幕府の威信は徐々に低下、一揆が多発し倒幕へと向かうことになった。

江戸時代の災害対策で見習いたい点は?

家屋や田畑を大事な社会資本と捉えて復旧を支援し、個人の生活再建までサポートした点を評価したい。江戸時代は「生かさぬように、殺さぬように」と、厳しい年貢の取り立てがあり民衆は耐えるばかりというイメージがあるが、これは一面的な見方だ。ときに重い年貢にあえぐことはあっても、災害など非常時には藩が自分たちの生活を保障してくれる、その合意があったからこそ江戸時代が260年以上続いたといえる。

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