阪神・淡路大震災の記録
第一日 早期復旧への第一歩
1.藤田の決断
神戸支店長の藤田新之は、神戸市西区の自宅で就寝中、突然の激震に見舞われた。部屋では家具が倒れ調度品が散乱したが、幸い家族に怪我人はなく、家屋の損傷も免れた。停電はしていたものの、自宅周辺の電柱にも被害は見られなかった。とっさに電池を見付け出しラジオを付けてみると、震源地は淡路島の野島と報道していた。「ひょっとすると明石営業所の辺りで、配電線に少し被害が出たかもしれないな」。そう考えた藤田は、状況確認のため神戸給電所や支店へ電話を入れた。しかし何度かけても通話中。地震発生から30分以上も経過した午前6時半頃、ようやく支店につながると、電話に出た警備員の第一声は「支店長、ようつながりましたなぁ!」だった。
驚く藤田に警備員は、支店社屋が大きなダメージを受けたこと、周囲のビルも同様に損壊したこと、道路は至るところで隆起・陥没していること……などを矢継ぎ早に告げた。こうして被害の深刻さを初めて知らされた藤田は、ただちに非常災害対策本部の設置を決断した。
次いで副支店長の黒木矩雄に連絡を入れた。またしてもつながらない電話を、必死にかけつづけること約10分。ようやく黒木を呼び出すことに成功した藤田は、取り急ぎ事情を説明し、各部責任者への連絡を黒木に託すと、自身はタクシーで神戸支店へ向かった。
2.災害対策本部、始動

この時点ですでに、原子力発電所に被害はなかったことが判明していた。また中央給電指令所では送電線の健全な箇所を洗い出し、順次切替送電を行った結果、地震発生直後約260万に上った停電軒数は、午後7時30分の時点で約100万軒に減少していた。
予想外の災害に見舞われながらも、沈着かつ迅速に機能し始めた初動体制。関西電力は復旧への道のりを順調に歩み始めた……かに見えた。
3.立ち尽くす現場

西宮営業所技術課の細見和真作業長は、それまでにも配電設備の復旧作業──台風や雷で電線が切れたり、交通事故によって電柱が倒れたりした現場は何度も経験していた。
けれどもこれほど凄まじい現場を見るのは初めて。「一体どこから手をつけたらいいのか……」。途方に暮れた。
電柱・電線などの復旧作業は、まず現場の被害状況を確認して仮修復を行い、安全が確認された後、送電を開始する、という手順で行われるのが普通。しかし被害程度が分からないため、とりあえず現場に向かうしかない。その結果、必要な資材が足りず引き返す。急いで資材センターに連絡しても、いつ届くか分からない……。細見は何もできない辛さを噛みしめながら、資材の到着を待ち続けた。
神戸市西部(須磨区・長田区・兵庫区など)の復旧作業に携わった兵庫営業所技術課の下谷正吾作業長は、交通網の寸断に悩まされた。「倒壊したビルや家屋が道路を塞ぎ、ふだんは通れる道が通れない。途中まで進んでは行き止まりになり、バックで車を出すことも度々だった」。ようやく現場に近づくと、損傷した電柱があるのは細い路地奥。大きな工事車両では、傾いた家の屋根が邪魔をして入れない。
日頃の訓練やこれまでの経験をはるかに超えた、厳しい現実がそこにあった。
4.ジレンマのなかで
復旧作業を指示する支店や営業所にも戸惑いはあった。神戸支店お客さま室(ネットワーク技術)の喜田定逸は、自宅の高砂市から最寄りの明石営業所へ出勤。初日はここから各営業所への復旧作業指示にあたるため、被害状況などの情報収集に努めた。
「ところが電話がなかなかつながらず、営業所の情報が入らない。ようやく連絡がとれても、第一線の営業所はほとんど戦場。殺気立っているため、状況確認どころではなかった」
支店には復旧作業の指示のほか、マスコミへの情報提供という役割もある。そのためにも、被害状況や復旧状況を把握する必要があった。けれども現場の事情が分かるだけに、営業所に協力を求めづらい──情報は必要だが、そのために前線の手を煩わせ、戦力を落としてはいけない。そこで喜田は、交通手段がなく支店に出社できないスタッフを最寄りの営業所に常駐させ、連絡係を務めてもらった。これで随分情報は集めやすくなった。
集めた情報はただちに集計、報告書にまとめて関係部署に送らねばならない。普段はパソコンで行う作業がほとんどだったが、この日はすべて手作業だった。ネットワーク技術30人が総出で、これにあたった。まさに「人海戦術」だった。
17日夕刻、姫路から海路、きんでんの復旧作業部隊が明石営業所に到着した。これと合流した喜田は、総勢20台ほどの車を連ねて神戸支店へ向かった。明日は支店で、また厳しい闘いが始まる──。そんな思いで車窓をみつめた喜田の眼に、いまだ火の手の衰えない長田の街が映った。
5.忘れ得ぬ光景

兵庫営業所工事課の山下栄三も、神戸市北区鈴蘭台での初日の作業を終えようとしていた。本来、山下の担当地域である長田区や兵庫区は、家屋の倒壊や火災が激しく復旧作業に手がつけられなかったため、比較的軽症だった北区に赴いていたのだ。
作業を終えた時には、すでに陽が落ちていた。山下たち作業員は、ふと鈴蘭台の高台から神戸市街を見下ろした。その時山下は、決して忘れることのできない光景を眼にした。 ミナト神戸の誇る「100万ドルの夜景」はそこにはなかった。10万ドルどころか1万ドルもなく、火災の煙が黒い雲になって街を覆っていた。すべての作業員がしばらくの間、無言のままその光景を見つめ続けた。そして一人一人が胸の内で、「我々の手で100万ドルの夜景を取り戻すんや」と、強い決意を固めていた。
>> 2nd day 街に明かりが戻り始めた!