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越前若狭探訪

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古代〜明治まで存在した大寺院 豊原三千坊〈坂井市〉

豊原〈坂井市〉地図

旧白山神社の参道

◀ 旧白山神社の参道
霊泉「閼伽井(あかい)(塔の池)
 ▲霊泉「閼伽井(あかい)(塔の池)」

旧白山神社
 ▲旧白山神社

華蔵(けぞう)院入り口の石垣
 ▲華蔵(けぞう)院入り口の石垣

越前国三十三ケ所観音札所の石仏(旧白山神社の境内)
▲越前国三十三ケ所観音札所の石仏(旧白山神社の境内)

六本木坂参道から豊原に至る入り口に立つ六地蔵
▲ 六本木坂参道から豊原に至る入り口に立つ六地蔵

 中世に「豊原三千坊」と呼ばれるほど多くの僧坊が立ち並んだ大寺院、白山豊原寺(はくさんとよはらじ) は、丸岡城から東へ約4kmの山あい(坂井市丸岡町豊原)に存在した。702年(大宝2)に白山信仰の霊場として泰澄(たいちょう)大師によって開かれて以降、盛衰はあったものの、その法灯は明治維新まで引き継がれた。賑わう門前では市が開かれ、甲冑(かっちゅう)師や鍛冶(かじ)師が働き、美酒や素麺(そうめん)の産地として知られた時代もあった。
 中世の動乱のさなか、豊原寺は平泉寺(へいせんじ)(現勝山市)と同様に多くの僧兵を擁し、権力抗争に関わり、戦乱に巻き込まれた。戦国末期には一向一揆(いっこういっき)の拠点となり、1575年(天正3)、織田信長の軍勢が豊原寺をことごとく焼き払った。豊原を与えられた柴田勝豊(勝家の甥(おい))は、翌年、丸岡(現在の丸岡城の地)に本拠を移し、豊原の各寺院もこれに従った。江戸時代には、歴代福井藩主や丸岡藩主の保護を受け、別当(神仏を併せ祀まつる豊原寺を統轄(とうかつ)する) 華蔵(けぞう)院により再興が図られた。
 豊原寺の廃絶は、明治維新の神仏分離令と、1869年(明治2)の華蔵院焼失による。これにより、分離された白山神社を残して、泰澄大師の開基から1167年の歴史を刻んだ豊原寺は廃寺に。明治14年に27戸、143人いた豊原村の住民も次々と下山して過疎化し、1963年(昭和38)の三八(さんぱち)豪雪により廃村となった。

 現在、豊原寺跡(坂井市指定史跡)には、開山から1300年余にわたり一度も湧き水が涸(か)れたことがないという霊泉「閼伽井(あかい)(塔の池)」(閼伽は仏前に供える水。泰澄大師が池のほとりに草庵を結んだとされる)や苔むした石垣、旧白山神社の参道石段、古びた石灯籠、石仏などが、訪れる人もなく、ひっそりと時を経ている。
 維新後、華蔵院の院主(いんじゅ)は、還俗(げんぞく)して豊原姓を名乗り、その継承者が院跡で暮らしたが、昭和37年に山麓の田屋(たや)に移転。信長の兵火を免れた旧講堂本尊の木造薬師如来坐像(平安後期の作)をはじめとする仏像や『白山豊原寺縁起』などの史料を今日まで守り続けた。豊原家は、2010年(平成22)に私設の「豊原三千坊史料館」を田屋に開設。豊原寺の栄華を伝える6体の仏像を含め約30点を展示している。
 1999年(平成11)、有志により豊原史跡保存会が発足し、機関紙や記念誌を発刊、2007年(平成19)に結成された「のうねの郷(さと)づくり推進協議会」とともに、豊原史跡の保存・学習活動などに取り組んでいる。

豊原三千坊史料館に展示されている『白山豊原寺縁起』
▲豊原三千坊史料館に展示されている『白山豊原寺縁起』
展示
木造薬師如来坐像(左)と木造阿弥陀如来坐像(右)
▲木造薬師如来坐像(左、令和3年春から修復のため翌年
 3月まで展示されていません)と木造阿弥陀如来坐像
 (右)。いずれも平安後期の作、坂井市文化財に指定。

豊原三千坊〈坂井市〉地図

【豊原三千坊史料館(〒910-0213 坂井市丸岡町田屋77-44)】見学は予約制(前日までに電話〔090-9442-6188〕)、
 開館/9時から17時、入館料/大人〔高校生以上〕200円、子供100円〔20名以上の団体は各50円割引〕
【参考】「豊原史跡保存会十周年記念誌(豊原史跡保存会・2009年発行)、「文化財ガイドブック豊原寺跡」
 (丸岡町教育委員会・1987年発行)、「豊原寺・東尋坊と白山へのまなざし」(みくに龍翔館・2017年発行)

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