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越前若狭探訪

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400年を超えて受け継がれた 七間(しちけん)朝市〈大野市〉

七間(しちけん)朝市〈大野市〉地図

七間朝市は、大野市街地中心部の七間通りで、春分の日から大みそかまでの毎朝(7から11時頃)開かれている。旬の野菜や山菜、花などを販売。手作りの総菜や加工品も並ぶ。

大野は名水のまち。七間通りにある造り酒屋が、醸造用にくみ上げている地下水「七間清水(しょうず)」。冷たい水が、朝市の客ののどを潤す。

七間清水 七間朝市 売り手(作り手)と買い手が話をする対面販売

売り手(作り手)と買い手が話をする対面販売は、七間朝市ならではの魅力。観光客だけでなく、なじみ客も多い。

 「北陸の小京都」と呼ばれる大野は、織田信長に仕えた武将、金森(かなもり)長近(ながちか)(1524~1608)が築いた城下町。天正(てんしょう)4年(1576)頃から亀山(かめやま)(標高約249m)での築城と、その東麓で城下町の建設を開始した。

 京都の町並みにならって、城下町は南北6筋、東西6筋の通りで短冊形(たんざくがた)に区割り、中心部を東西に貫く道幅5間(約9m)の大通りは「七間(しちけん)」と呼ばれ、当時から道の両側に農家の女性らが野菜などを並べ、市(いち)が開かれたという。以来、今日まで400年を超えて受け継がれてきた。

 七間通りは、越前と美濃(みの)を結ぶ「美濃街道」の道筋ともなり、人馬が盛んに行き来した。長近は、亀山山頂の城から見える七間通りをはじめ、城下町の賑わいを日々眺めたのだろう。

 長近の生いたちは、市(いち)との深い関わりが伺える。父の大畑(おおはた)定近(さだちか)は、戦(いくさ)で深手を負い、武士に戻ることがかなわず、生国(しょうごく)の美濃から近江国(おうみのくに)野洲(やす)郡金森(かねがもり)(現在の滋賀県守山市)に移り住み、金森(かなもり)を名乗ったとされ、熊胆(くまのい)(健胃剤)や鹿茸(ろくじょう)(強壮薬)を作って市で売り、生業(なりわい)としたと伝えられている。長近は父を手伝い、市の賑わいを間近に見て育ったという。

金森長近像
▲越前大野城天守閣の近くに立つ金森長近像。長近は初代城主で、のちに「北陸の小京都」と呼ばれる城下町の基礎を築いた。

越前大野城
▲越前大野城は明治維新の廃藩で取り壊され、石垣だけが残された。現在の天守閣は昭和43年(1968)に再建されたもの。

 七間通りの市を詠んだ幕末の頃の歌に、「野菜の叺(かます)(わらむしろを二つ折りにした袋)に古手(ふるて)の媼(おばば) 所の名物売り買いに山家(やまが) 言葉も顔を出し さげて帰るは油揚の苞(つと)(わらづつみ)孫にゃ饅頭(まんじゅう)の紙包み」とある。近郊の村から山菜や朝採りの野菜を市に持ち寄り、売り上げで晩のおかずや、孫に土産を買って帰るおばあさんの姿が目に浮かぶ。そうした様子は今も変わらない。

 長近が大野の領主だったのは、わずか10年ほど。信長の死後、主(あるじ)となった豊臣秀吉から、戦功により飛騨一国を与えられ、高山に城と城下町を築き上げた。徳川の世になると、故郷の美濃に戻って隠居。茶人としても知られた人物である。

 越前大野は、長近の町づくり開始から440年余りが過ぎた。七間通りの商店街は、江戸時代から続く老舗が多く、醤油(しょうゆ)・味噌(みそ)の醸造元、酒造業、呉服商、和菓子店など間口(まぐち)の広い大店(おおだな)が立ち並ぶ。城下町は、明治期に2度の大火で焼けて、ほとんどがそれ以降の建築。一部、防火対策のために拡張された街路もあるが、七間通りをはじめ、多くは長近時代の道筋と道幅が、ほぼ当時のまま残っている。

越前大野城とその東側に広がる城下町 亀山から望む七間通り

亀山から望む七間通り。金森長近は、城下町の賑わいを城から日々眺めたのだろう。

  ▲越前大野城とその東側に広がる城下町(犬山から撮影)

七間(しちけん)朝市〈大野市〉地図

【問い合わせ】(一社)大野市観光協会〒912-0081大野市元町10-23(七間通り) TEL0779-65-5521 えちぜんおおの観光ガイド https://www.ono-kankou.jp/

【参考文献】「大野市史(第15巻)通史編上 原始~近世」(大野市・平成31年発行)、「街角ウオッチング 大野の朝市」(坂田玉子著・福井の文化第31号所収〔福井県文化振興事業団〕平成10年発行)

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