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越前若狭探訪
越前と近江の湖北・湖東を結ぶ北国(ほっこく)街道。この街道は、今庄から南下して栃(とち)ノ木峠を越え、木之本を経由、鳥居本(とりいもと)で中山道(なかせんどう)に合流する。「東近江路(ひがしおうみじ)」とも呼ばれる。
もともとは戦国武将・柴田勝家(かついえ)が、天正(てんしょう)6年(1578)、居城の越前北ノ庄から安土(あづち)城の織田信長のもとへ向かう最短路として、栃ノ木峠(標高538m)越えの細く険しい山道を幅3間(約5m余)に広げ、道の両脇に側溝(排水路)を設けるなど大改修を行ったのが始まり。
今庄宿の南端にある「文政の道しるべ」(文政13年〔1830〕建立)が分岐点。南に向かって、左に進めば北国街道で、江戸時代には、福井藩をはじめ各藩の江戸参勤交代や伊勢参りの人たちが利用した。
一方、右は木ノ芽峠(標高628m)を越え、敦賀を経由して湖西を通り、京都に至る。このルートは平安時代に開削された北陸道で、「西近江路」と呼ばれる。
福井県の嶺北と嶺南を隔てる山塊を背にした今庄は、初代福井藩主の結城(ゆうき)秀康(徳川家康の次男)によって計画的に町並みが整備され、越前屈指の宿場町に発展した。幕末頃の記録では戸数290余り、旅籠(はたご)屋55軒、茶屋15軒、酒屋15軒などが立ち並んだ。町割りや道幅は、現在も江戸期とほぼ変わらず、宿場の面影をとどめる。
福井̶今庄間は約8里(約32km)あり、当時の人が歩いたほぼ一日の行程。福井を早朝に出立(しゅったつ)した旅人は、その多くが今庄宿に泊まり、翌朝から峠越えにかかった。
栃ノ木峠に向かう道中の板取(いたどり)宿には、同じく結城秀康が関所を設けて取り締まった。ここには茅葺(かやぶ)き屋根の民家が4軒現存し、石畳の道とともに昔の街道の姿を今に伝えている。
福井・滋賀県境の栃ノ木峠周辺には、トチノキが群生し、峠の名前の由来にもなった。今も推定樹齢500年という巨木がそびえる。勝家の時代から永く命を保ち、急斜面に立ち続けてきた。山道を上って峠にたどり着いた人々の心をやさしく癒(いや)してきた古木だ。
【参考文献】福井県今庄の歴史探訪(山本勝士著・平成7年今庄町発行)、越前若狭歴史街道(上杉喜寿著・平成4年発行)、福井県歴史の道調査報告書第2集(福井県教育委員会・平成14年発行)