木曽川開発の歴史

木曽川history part4

開発会社の変遷と木曽川の電源開発 その2

・木曽川の電気を大阪方面へ
 木曽川の大規模な水力開発を進めるべく設立された木曽電気興業でしたが、既存の発電所をはじめ当時建設工事を行っていた大桑、実施計画中の須原、読書、落合、大井各発電所のほかに水利権を持っていた桃山・寝覚、笠置、錦津(後の丸山)地点などを合わせると当時で12万キロワット強という豊富な電力を保有することが確実になり、これだけの電力を中部地方だけでは消費できないと見越した社長の福沢桃介は電力の大消費地関西への送電を計画しました。
 程なく利害の一致した京阪電鉄と共同出資で 1919年(大正8年)に「大阪送電線株式会社」を設立した桃介は、自ら社長に就任し大阪・京都に通ずる「大阪送電線(現在の木曽幹線)」建設に着手しました。

大阪送電線(犬山付近・大正12年)
大阪送電線(犬山付近・大正12年)

・「三社合併」と大同電力誕生
 木曽川から関西への送電の動きと並行して、北陸地方にも同様の構想がありました。
 北陸地方の豊富な水力に着目していた大阪電灯と京都電灯の関西二社は、九頭竜川や庄川水系など富山・岐阜両県に亘って水利権を持っていた北陸電化株式会社と共同で「日本水力株式会社」を設立し、水力開発と大規模送電線の開発を進めていました。
 「関西への送電」という共通の目的を持った両社は、当然のことながら関西地方における電力供給の優位な立場を確保すべく工期・送電量などでしのぎを削っていたのですが、世情は第1次世界大戦後の反動不況に直面し電力需要も激減したため経営が悪化、打開策として大阪送電線が日本水力と木曽電気興業を吸収合併し、1921年(大正10年)に「大同電力株式会社」が発足しました。
 この三社合併ですが、当時三社の中で経営状態が比較的良く資産も多かったのは桃介が社長を務める木曽電気興業(大阪送電社長も兼務)だけだったので、合併後の社長が誰になるのかは戦う前からわかっているような状況でした。
 ほどなく桃介を初代社長に迎えて大同電力は発足し、木曽川をはじめとする中部および北陸の豊富な水力を開発、関東・関西へ大量供給する名実ともに日本を代表する大電力会社となったのです。

大井ダム建設工事中における洪水の様子
大井ダム建設工事中における洪水の様子

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