関西電力の歴史

関電スピリッツを培ってきた数々のプロジェクトを振り返る。

克服された危機 ~オイルショックの前後~

1973年10月16日、世界に衝撃が走った。6つの産油国が連携して原油公示価格の引き上げ(※1)を発表したのだ。世に言う“第1次オイルショック”により、世界経済は大混乱に陥った。日本経済への影響も多岐に渡り、商品買い占めなどの社会現象が起こった。
折しも、カラーテレビやエアコンの普及による電力需要拡大への早急な対応に迫られていた関西電力にとって、オイルショックに伴う燃料費の値上がりや物価の高騰は測り知れない痛手だった。

原油価格の引き上げに端を発した一連の問題は、6年後の“第1次オイルショック”にまで長期化するが、関西電力は社会と一体となってこの危機を乗り切っていく。「どんな状況下でも困難に立ち向かい、電力供給に努める」。関西電力が「関電スピリッツ」のもと会社一丸となって前進を続けた当時の経験を、ここに振り返ってみたい。

暑い関西。エアコンの普及でさらに深刻な事態に

高度経済成長が最終段階を迎えた1960年代終盤以降、全国各地で深刻な電力危機が発生し始めた。カラーテレビやエアコンなどがめざましい勢いで家庭に普及し、エアコンの使用が集中する夏季の午後1時から4時に電力需要が跳ね上がるようになった。この電力需要ピークの時間帯を無事に乗り切ることが、関西電力をはじめとした電力会社にとって大きな課題となってきたのだ。アメリカでも事情は同じで、例えばニューヨークでは、真夏の一時期に、電圧の引き下げ、地下鉄の速度規制、節電要請などの対策が実施されていた。

“くろよん”建設をはじめとする懸命の努力により、戦後の復興期から高度経済成長期にかけて、増大の一途を辿る電力需要に応え続けてきた関西電力にとっても、この問題の解決は容易ではなかった。1972年頃には関西電力管内の夏季最大電力中の約30%が冷房用と推定されるまでになった。うだるような暑さの中では、外出せずに冷房の効いた部屋でのんびりと夏の風物詩である高校野球大会の中継を最新鋭のカラーテレビで楽しむ人もたくさんいたであろう。当時は、温度が1度上昇すると電力需要は10~30万kW増えると言われていた。

電車の中吊り広告文
関西電力新聞 昭和47年8月臨時号
1971年、地域との共栄に向けた「新経営方策」実施

こうした状況を背景に、関西電力は1971年初頭、「新経営方策」を打ち出した。基本目標を「電力危機打開へ総力の結集~クリーン・エネルギーで地域の繁栄をささえよう~」と設定し、一層の努力を重ねて発電所の建設を軌道に乗せ、倍増が予想される5年後の電力需要に余裕をもって応えられるようにすることが、最大の課題となった。

同年8月のニクソンショック(※2)による経営環境の激変もあり、1972年春からは経営の効率化推進に特に力を注ぎ、あらゆる面で効率化が進められた。ここで注目されるのは、保有する設備の有効活用、業務運用の改善や、資金・経費の効率化など関西電力の「社内」にとどまらず、エネルギー資源の高度かつ有効的な活用や電気設備の省エネルギー化推進など、広く「社会」を見据えて展開したことだ。また、国を挙げた取組みとなる“省エネルギー推進”においても、関西電力は一足先に着手しはじめていたのであった。

社会とともに、危機回避に成功

夏季の電力需要ピークに向けては、1971年から、既設発電所の有効利用、建設中の発電所の早期運転開始、電力会社間で相互に電力を融通し合うなどの対策を実施。さらに大規模工場などで大きな契約を結んでいるお客さま(以下、大口のお客さま)にご協力いただいて日曜の休みを他の曜日に振り替えていただき、ご家庭のお客さまに対してもテレビ、ラジオ、新聞の広告を通じて節電のご協力をお願いさせていただいた。たくさんのお客さまのご協力の結果、大口のお客さまの休日の振り替えによるピークの減少分だけでも当初予想を大幅に上回る節電が実現し、無事に一夏を乗り切ることができた。

翌1972年の夏は、6月に発電所で不測の設備不具合が続き、さらに翌1973年の夏は、猛暑と光化学スモッグによる火力発電の抑制(※3)が要因となって、両夏とも関西電力の電力供給は危機に瀕し続けた。何とか需給バランスを保とうと、大口のお客さまをはじめとした節電のご協力を繰り返しお願いし、また、テレビ、ラジオ、新聞の広告を通じたご家庭のお客さまへの働きかけにも工夫を凝らした。夏季の電力需要逼迫状況を「サマーピーク」と名づけ、電車内には「サマーピークがピンチです」との中吊り広告を掲載しお客さまに節電のご協力をお願いした。また、テレビCMではアニメーションを使いお客さまが日常生活で簡単にできる節電の取組みをご紹介する、といった活動を展開した。

この結果、電気のご契約内容に「ピークカット(電力需給逼迫時に電力使用の抑制をお約束する)」を盛り込んでいた大口のお客さまには、1972年に1回、1973年に13回ピークカットをお願いすることとなったが、電力使用制限令(※4)の発動などご家庭のお客さまをはじめとして社会全体に広く大きく影響を与えるような、より重大な措置はとることなく、秋を迎えることができた。

緊急時対応コマーシャル
関西電力新聞 昭和47 年8 月臨時号
第1次オイルショック勃発。危機に際し全社が結束

1973年、夏を乗り切り一息ついた10月半ばに、突然、第1次オイルショックが押し寄せた。第4次中東戦争にからんでペルシア湾岸の6つの産油国が石油公示価格を70%引き上げることを発表。続いて、イスラエルに敵対するアラブ石油輸出国機構が原油の生産制限を開始し、イスラエル支持国への輸出禁止を決定したのだ。日本では翌11月から総需要抑制の政策が敷かれ、石油と電力の節約が進められた。これがモノ不足への不安につながり、関西から全国へ、トイレットペーパーなどの商品の買い占め騒ぎが広がっていく。さらに12月には、翌1月から石油公示価格がさらに2倍強に引き上げられることが発表され、インフレと不況に拍車がかかった。

関西電力はこれを“未曾有の危機”ととらえ、1974年1月14日には、当時の社長・吉村清三から社員全員に向けて「経営危機に際して」と題する通達を発し、「全社一丸となって経営危機突破にまい進する」スタンスを固めている。ふた夏に渡ってお客さまや社会のご協力により電力危機を乗り切ってきた経験から「関電スピリッツ」の重要性を改めて強く実感していた社員たちは、新たな危機を前に奮い立った。

オイルショックをバネに、次なるステージへ

オイルショックの混乱は次第に沈静化したが、同様の混乱を引き起こさない強い日本経済を築くため、政府は1974年度から、省エネルギーに関わる技術開発と石油代替エネルギーの推進に取り組みはじめた。“サンシャイン計画実施要項”(※5)に基づき太陽光発電、地熱発電、石炭液化・ガス化、水素発電の研究・開発も進められた。1979年には「エネルギーの使用の合理化に関する法律」(省エネルギー法)、1980年には「石油代替エネルギーの開発及び導入の促進に関する法律」(石油代替エネルギー法)も整備された。

関西電力は、前出の通りすでに1972年春から電力エネルギー使用の効率化に取り組み、オイルショック前夜の1973年2月には、ゆくゆく迎えるであろう省資源の時代における長期的な発電比率の構成の検討や、省エネルギー化の推進などを目指す「エネルギー危機に対処する経営方針」を決定していた。このため、オイルショック後の省エネルギー政策には素早く対応することができ、1977年10月からは社長を議長とする「省エネルギー推進会議」を設置して独自の取組みを展開していく。

官民一体となった省エネルギー、石油代替エネルギー推進の成果の一端は、1979年からの第2次オイルショックでも示された。再度繰り返された原油価格の引き上げにより大きな打撃を被った欧米先進国とは対照的に、日本は大きな混乱はなく、経済成長率もわずかに低下しただけで持ちこたえた。取組みの方向性は正しかったのだ。「関西電力のやってきたことに間違いはなかった」。同時に、エネルギーをより効率よく使う技術や、多様な方法で電気を生み出す技術を追求していくことが、不変の課題であることを自覚したことで、新たな覚悟も生まれた。以後、電力供給の次なるステージに向けて、広範かつ高度な挑戦が続けられていくこととなる。

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