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越前若狭探訪

越前若狭探訪

江戸中期、油桐(アブラギリ)畑の地境に植栽 神子(みこ)の山桜 〈若狭町〉

福井県地図

神子の山桜の花見
▲神子の山桜の花見おすすめスポット、岬小学校グラウンド近くから撮影。

 常神半島の漁村、神子(みこ)(若狭町)の山桜は、例年4月上旬頃が見頃で、入り江を囲む山の斜面一帯に群生する桜が、変化に富んだ色合いに山肌を染め上げる。
 古い数字だが、今から60年ほど前、福井県の名勝指定時に行われた調査では、幹回り1mを超すものが144本、このうち2mから3mが26本、3m以上が9本あり、最大は実に3.6mだったという。
 巨木、古木が多く交じる神子の山桜の由来をたどると、江戸時代半ばの寛保(かんぽう)2年(1742)にさかのぼる。小浜藩の奨励で山を開墾し、段段畑に油桐(アブラギリ)を植えた際に、地境の目印として樹齢の長い山桜を植えたのが始まりとされる。
 油桐の実を若狭では「コロビ」と呼ぶ。江戸時代から昭和30年代頃まで、コロビをしぼって採れる桐油(とうゆ)は、暮らしの中で利用された。毒性があるため食用にはならないが、灯火用のほか、紙に桐油をにじませた油紙は和傘・提灯(ちょうちん)・雨合羽(あまがっぱ)などの防水の用途に。明治以降は印刷インク、塗料の原料にもなった。その後、石油の出現や国外からの桐油の輸入、桐油に代わる安価な化学製品の普及などによって国内での生産は衰退した。
 そもそも若狭は、江戸後期、全国一の桐油産地だった。小浜藩が承応(じょうおう)2年(1653)から、油桐の植付けを領内に命じ、海岸部の温暖なところから栽培が広まった。小浜の油問屋がコロビをコメに匹敵する値段で買い上げ、18世紀には山間部を含む若狭全域で生産された。若狭の桐油は江戸・名古屋・大坂など全国に送られ、「若狭油」の名で広く知られた。神子は、常神半島におけるコロビの主産地であり、最盛期には漁業を上回る現金収入をこの地にもたらした。
 神子の山桜は、油桐栽培の歴史の中で守り育てられ、昭和40年頃にコロビの生産出荷を終えた後も桜は自生して増え、現在に至っている。巡りくる春ごとに出現するその複雑で繊細な色彩は、日本の伝統的な美の世界だ。

地図

旧三方町(現若狭町)海山での「コロビつき」の共同作業風景(昭和28年頃)
▲旧三方町(現若狭町)海山での「コロビつき」の共同作業風景(昭和28年頃)。山で拾い集めたコロビを、臼でついて外皮を割り、つり下げた大どおし(大型のふるい)にかけて種子を選り分け、俵に詰めて出荷した。海山では、昭和35年頃まで毎年11月にコロビつきが行われた。
〈写真・上田治太郎氏所蔵〉

コロビ(油桐の実)
▲コロビ(油桐の実)の中には、数個の種子が入っており、それをしぼった油が桐油。昔は灯火用のほか、紙に染み込ませて傘や提灯の油紙に利用した。

神子の入り江のパノラマ写真
▲神子の入り江のパノラマ写真。山桜が集中するエリアは、写真右端の岬から1km以上に及ぶ。

【取材協力】若狭町歴史文化館
【参考文献】『三方町史』(三方町・平成2年発行)、『小浜市史通史編上巻』(小浜市・平成4年発行)、『文化財調査報告第11集』(福井県教育委員会・昭和36年発行)、『福井県史通史編4』(福井県・平成8年発行)

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