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越前若狭探訪

玄蕃尾城(げんばおじょう)跡(敦賀市)
賤ヶ岳合戦から430年 勝家の本陣跡が現存

玄蕃尾城の本丸(司令所)跡
玄蕃尾城の本丸(司令所)跡。右の白い標柱が
ある所は、櫓台(天主台)跡と推定されます。
堅固な土塁や空堀が構築された玄蕃尾城
堅固な土塁や空堀が構築された玄蕃尾城

長大な防御塁壁
柴田軍の南下を阻止するため、
吉軍は谷を塞ぐように長大な
防御塁壁を設けました。
地図

 本能寺の変の後、織田信長の後継を争った羽柴(はしば)(のちの豊臣)秀吉と、織田家最古参の重臣で越前北庄(きたのしょう)城主の柴田勝家。その命運を決した天正11年(1583)の賤ヶ岳(しずがたけ)合戦で、勝家が本陣を置いたのが玄蕃尾城(げんばおじょう)でした。
 玄蕃尾城跡(平成11年、国史跡に指定)は、敦賀市の南東部で、越前と近江の国境(くにざかい)に位置する柳ヶ瀬(やながせ)山(内中尾(うちなかお)山)の山頂、標高450m付近にあります。城の遺構は南北約300m、東西約170mにわたり、空堀(からぼり)(水のない堀)や土塁(どるい)(盛り土)が保存整備されています。賤ヶ岳合戦から430年余りが過ぎた今も、戦国の城郭(じょうかく)遺構をほぼ完全な形で残しており、多くの歴史ファンが訪れます。
 城跡へは敦賀側から登るのが便利です。旧国鉄柳ヶ瀬線の柳ヶ瀬トンネル(現在は県道)西口から山頂近くまで林道が通じているため、車を降りて山道を20分ほど歩くと城跡に着きます。
 余呉(よご)湖周辺に陣取る羽柴軍と対峙(たいじ)した柴田軍は、前線に佐久間盛政(もりまさ)、前田利家(としいえ)、金森長近(かなもりながちか)らが砦(とりで)を設け、その最後部に大規模で堅固な造りの玄蕃尾城を構えました。本丸(司令所)や見張り台、出撃拠点、補給基地などを土塁や空堀で囲み、当時は柵(さく)・塀・櫓(やぐら)などが築かれていました。
 一方、田上(たがみ)山を本陣とする羽柴軍も、柴田軍の南下を防ぐため、余呉湖の北方、北国(ほっこく)街道の両側に山がせり出す所に、左禰(さね)山砦と堂木(どうき)山砦とを結ぶ長大な防御塁壁(るいへき)を多重に築きました。最前線には、高さ2mの土塁の上に柵を設け、その前に深さ3m近い空堀があったと推定され、攻める側から見れば、堀の底からは高さ5mもの壁が立ちはだかったことになります。勇猛果敢かつ戦(いくさ)巧者で知られる柴田軍の南進を阻み、持久戦に持ち込んで勝機を呼び込もうという秀吉の戦略でした。
 戦況が膠着(こうちゃく)するなか秀吉は、勝家に味方する岐阜城の織田信孝(信長の三男)を攻めるため、自ら本隊を率いて北近江を離れます。これを好機と、柴田軍の猛将佐久間盛政が行市(ぎょういち)山砦から南下、余呉湖の西を迂(う)回して、背後から、防備の手薄な大岩山砦と岩崎山砦を攻め落としました。
 このとき秀吉は、岐阜城の20km手前、大垣に。大雨で川が増水し、進めずにいたのです。結果的に、岐阜での戦端を開く前だったことが秀吉に幸いしました。急きょ羽柴軍1万5千がとって返し、52kmの道のりを5時間という驚異的な早さで木之本に駆け戻りました。
 これにより、敵陣内にいた佐久間軍は、大急ぎ撤退を開始。賤ヶ岳付近で必死の攻防が続くなか、盛政を援護するはずの前田利家軍は、まさかの戦線離脱。これが決定的な引き金となって柴田軍は総崩れに。勝家自身も北庄へ退却しました。これが世にいう賤ヶ岳合戦のあらましです。
 戦国の武将たちは、「生き残るには強き者に従うしかない」という選択を常に迫られました。その判断が、一族の存亡だけでなく、合戦の勝敗までも左右しました。失意の勝家が去った玄蕃尾城も、そうした戦国ドラマの一舞台であり、歴史の分岐点でした。

【参考文献】『歴史群像デジタルアーカイブス 賤ヶ岳合戦と陣城構築』(中井均著・平成26年発行)、『フィールドワーク関ヶ原合戦』(藤井尚夫著・平成12年発行)、『戦国10大合戦の謎』(小和田哲男著・平成7年発行)、『戦国10大合戦の大ウソ』(森田善明著・平成23年発行)

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