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越前若狭探訪

日引石(ひびきいし)(高浜町)
中世に高浜で造られた石塔 広く津軽~薩摩に現存

日引石を切り出した大谷山
▲日引石を切り出した大谷山(高浜町日引)
日引石製の宝篋印塔
▲高浜町上瀬の海門寺にある日引石製の宝篋印塔
(応安6年、高さ137㎝、高浜町指定文化財)
日引石製のこま犬
▲日引石製のこま犬(日引の氣比神社)
日引の棚田と集落
▲日引の棚田と集落。内浦湾を挟んだ対岸の
音海からも石を運びました。

 美しい棚田と若狭ふぐの養殖で知られる高浜町日引(ひびき)は、福井県の西端・内浦湾に面した集落です。ここは、中世から昭和初期まで日引石(安山岩質凝灰岩(あんざんがんしつぎょうかいがん))の産地でした。その石質は軟らかく加工に適していたことから、日引には大勢の石工(いしく)がいて、背後の大谷山から石を切り出し、石塔などに加工していました。
 日引石製の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔(ごりんとう)、灯籠(とうろう)、こま犬などが、高浜町から小浜市周辺、京都府北部などに多数存在し、古いものでは、日引に近い上瀬(うわせ)や山中(やまなか)の寺に「応安六年」(1373・南北朝後期)と刻まれた宝篋印塔があります。
 平成8年、長崎県と兵庫県の石造物研究者によって、新たな事実が判明しました。古い日引石製の宝篋印塔や五輪塔が、北は青森県津軽半島の十三湊(とさみなと)(中世に日本海交易で活躍した豪族・安藤氏の本拠)から、日本海側の各府県で中世における海運の要所だったところ、南は長崎県の島々、鹿児島県薩摩半島の坊津(ぼうのつ)に至るまで、広範に現存していることが確認されたのです。
 それらは、石質だけでなく、梵字(ぼんじ)の刻み方、蓮弁(れんべん)の意匠、石塔各部の寸法比率や全体のバランスが共通しており、いずれも14世紀後半~15世紀前半(南北朝後期~室町前期)に集中して建てられたものでした。これは、同時期に日引で造られた大量の石塔が、日本海から東シナ海の沿岸各地へと運ばれていたことを示しています。
 特に長崎県には、対馬(つしま)や五島(ごとう)列島、平戸(ひらど)島などを中心として、約400基もの日引石塔が集中しています。石塔が運ばれた当時、それらの島々は倭寇(わこう)(朝鮮半島や中国大陸の沿岸を荒らし回った海賊)の根拠地で、都での取引のため若狭に来航したと考えられます。
 古くから若狭は、日本海海運における都への玄関口であり、荷を降ろした後、船を安定させるための底荷として石塔を積んだとみられます。
 滅罪(めつざい)や安寧(あんねい)、往生(おうじょう)を願い、宝篋印塔は財力のある者、五輪塔は幅広い階層により、供養塔・墓塔として建てられました。いずれも石造で盛んに造られるようになるのは鎌倉時代以降で、日引での石塔生産もそのころから始まったようです。内浦湾には船が続々と出入りして、石塔を積み込むとともに、日引は大量の注文を受けて大いににぎわったことでしょう。
 日引の大谷山は、かつて至るところに岩盤が露出し、麓(ふもと)付近にも石切り場がありましたが、大正期に枯渇し始めて、次第に山頂近くへと移り、加えて対岸の音海(おとみ)の山からも石を切り出して日引に運びました。
 日引石は、石材不足と、戦後は輸入石に押されて衰退しました。「以前は村中(じゅう)が、農業や漁業と兼業しながら石屋をしていた」という日引も、昭和30年代になると石工はわずか数名に―。
 内浦地区を散策すると、いつの時代のものか、風化した石仏やこま犬など多くの石造物に出合います。今から600年ほど前、海路を運ばれた多数の日引石塔もまた、遠い海辺の地で悠久の時を刻み続けています。

地図

【取材協力】高浜町郷土資料館、昭和40年代まで石工職人をされていた森本與氏をはじめ日引地区の皆さまからお話を伺いました。
【参考文献】『石が語る中世の社会』(大石一久著・平成11年発行)、『日引』第1号(石造物研究会・平成13年発行)、『遠距離大量搬送された中世石塔』(古川久雄著・平成10年発行)、 『新編大村市史』第2巻中世編( 長崎県大村市・平成26年発行)、『中世石塔の考古学』( 狭川真一、松井一明編・平成24年発行)

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