事業所・関連施設

越前若狭探訪

富津(とみつ)開拓の歩み(あわら市)
荒れ野に入植して70年築き上げた地域ブランド

海抜40~50mの丘陵地に広がる富津のサツマイモ畑
▲海抜40~50mの丘陵地に広がる富津のサツマイモ畑。農薬・化学肥料を減らすとともに、緑肥作物をすき込むなど土づくりに力を入れ、年間約600tを出荷。今年の収穫は、8月中旬頃から始まります。
富津の若手農業者グループ「エコフィールドとみつ」のキュアリング貯蔵施設(平成23年新設)
▲富津の若手農業者グループ「エコフィールドとみつ」のキュアリング貯蔵施設(平成23年新設)。温度と湿度を管理してサツマイモの表面をコルク化することで、品質の維持と長期保存が可能に。保存中にでんぷんが糖に変わり、甘みもアップします。
地域ブランドに成長した「とみつ金時」
▲地域ブランドに成長した「とみつ金時」。ファーマーズマーケット・きららの丘(あわら市牛山)などで販売しています。
富津入植35周年記念碑(昭和56年秋に建立)
▲「私達のあしあとをこの悠久の大地に」と刻まれた富津入植35周年記念碑(昭和56年秋に建立)

 日本海と北潟(きたがた)湖の間に位置するあわら市の富津(とみつ)地区では、全国的に高い評価を得ているサツマイモの地域ブランド「とみつ金時(きんとき)」が栽培されています。
 現在、丘陵地に広い畑とビニールハウスが並び、約30世帯が暮らす富津は、今から70年前の終戦(昭和20年)以降に新しく開拓されたところ。元は砂丘に松や杉、雑木の森が広がる水の乏しい荒れ野でした。富津という集落名も新天地を求めて入植した人々が名付けました。最初の入植者は35戸。その多くが福井空襲で家・財産を失った被災者で、いずれも農業は未経験でした。
 昭和20年11月、入植者たちは5班に分かれ、北潟湖畔の寺に分宿。12月には、隣町で軍が使用していた兵舎を貰い受け、自分たちで解体し、材木を担いで富津へ。各班ごとにバラックの三角小屋を建て、土間に筵(むしろ)を敷いて共同生活を開始。電気も水道もない、大昔に戻ったような暮らしでした。
 開墾は、木を切り倒して根を抜くことから。すべて人力による過酷な作業でした。しかも、食料不足は深刻で、「食べられるものは何でも食べた」といいます。収穫まで食いつなぐため、海水を煮詰め、塩をつくって売るなど、必死で日々の糧(かて)を求めました。そして開墾を終えた場所から、まずジャガイモを植え、初収穫では小さなイモを手に小躍りして喜び合ったといいます。
 入植2年目の秋、地元の人たちの援助で三角小屋を増築し、宿舎の寺から家族を呼び寄せました。三角小屋での集団生活は、3年目の秋まで2年間続きました。その間、開墾と生活苦が続くなか、計55戸が入植したものの、約4割に当たる23戸が富津を去っています。その後、昭和23年の福井地震で家が傾き、さらに25年のジェーン台風では、住宅や畜舎が全半壊するなど35戸すべてが甚大な被害を受け、転出する人が出て27戸に減少しました。
 昭和23年、電灯を架設。電柱にする原木の切り出しや設置など、できることは自力で行いました。30年代に入ると簡易水道を敷設し、何度も谷川と行き来する水くみから解放されました。
 作物栽培や加工事業は、試行錯誤の連続でした。富津の気候や土壌に何が適しているか、30種以上の作物を栽培。昭和26年、スイカを大阪中央市場に初出荷して好評を得ました。昭和40年代には、県内の先陣を切ってビニール・ハウスを建設、トラクターなど大型機械もいち早く導入しました。
 昭和55年以降はサツマイモに力を入れ、品種の選択や栽培研究、新技術の導入を進め、61年には県内初のキュアリング貯蔵庫を建設。これにより長期貯蔵、通年出荷が可能に。富津の名を広めるため、スーパーやイベント会場へ焼き芋の実演販売にも出かけました。
 平成に入ると、富津はほぼサツマイモ一色に。そして今や「とみつ金時」は地域ブランドに成長。現在、若手生産農家5戸が「エコフィールドとみつ」という組織をつくり、生産出荷を担っています。苦難に決してくじけることのなかった父祖の開拓者精神を、若者たちがしっかりと引き継いでいます。

地図

【取材協力】富津地区の皆さまからお話を伺いました。
【参考文献】『富津・開拓と区のあゆみ~入植65年を記念して~』
(市村敬二著・平成22年発行)、『芦原町史』(芦原町・昭和48年発行)

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