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越前若狭探訪

身御供祭り(おおい町)
納田終(のたおい)・加茂神社の大祭 白羽の矢伝説に由来

加茂神社の大杉(名田庄納田終の白矢集落)
▲加茂神社の大杉(名田庄納田終の白矢集落)
陰陽道宗家・土御門家の史跡がある白矢集落
▲陰陽道宗家・土御門家の史跡がある白矢集落
加茂神社の舞堂(左)と本殿(右奥)
▲加茂神社の舞堂(左)と本殿(右奥)
春の大祭で行われる柴走り
▲春の大祭で行われる柴走り

牛の舌もちなどを神前に供える身御供祭り
(加茂神社本殿)▼
牛の舌もちなどを神前に供える身御供祭り(加茂神社本殿)
加茂神社 春の大祭 平成24年3月2日

 名田庄納田終(のたおい)の加茂神社は、養老2年(718)の創建と伝えられる歴史の古い社(やしろ)です。同神社の春と秋の大祭では、白羽(しらは)の矢・人身御供(ひとみごくう)の伝説を由来とする「身御供(みごく)祭り」が、古式ゆかしく執り行われます。その伝説とは――
 昔、毎年2月頃に、どこからか白羽の矢が放たれ、氏子の中で若い娘のいる家の屋根に突き立てられました。その家では、娘を人身御供として檻(おり)に入れ、神前に差し出さなければならず、従わなければ、村が大嵐に遭ったり、疫病が流行するといった災いに見舞われました。しかし、子を失う悲しみは耐え難く、村人たちは神前で、人身御供に代わるお供えをもって災難を逃れさせてほしいと一心に祈りました。
 願いは聞き届けられてお告げがあり、夏の土用に清らかな川でとった魚を塩押しし、ご飯と抱き合わせてすしを作り、「身ずし」と名付けてお供えすることになりました。
 以来、白羽の矢が立つことはなく、納田終の人たちは、毎年正月3日、くじで4軒の祭り当番を決め、加茂神社の春の大祭(3月2日)と秋の大祭(10月初旬)の2回、身御供祭りとして身ずしを神前に供えてきました。
 いつのころからか、身ずしの代わりに「牛の舌もち」(小判形のもち)や鏡もち、川魚などを供えるようになり、行事も一部省略されましたが、昔からの決まりごとが今も重んじられています。祭りに用意されるもちは、2枚重ねの鏡もちが4組、牛の舌もちは87枚で、総重量は30kgを超えます。それらを神社本殿まで、石段を歩いて運び上げるのもひと苦労です。
 大祭の日の1週間前から、当番の家では神社の神霊を迎える祭壇を設け、当主は毎朝、冷水を浴びてけがれを去る「水ごり」をします。祭りに際して、神社の神霊を当番の自宅に迎えてまつる習わしは、かつて地方では広く行われていたそうですが、次第に途絶えて近頃では珍しくなりました。
 春の大祭当日に行われる加茂神社の「柴走(しばはし)り」も、古くからの神事です。正月3日のくじで選ばれた祭り当番の4軒は、それぞれ血縁者から走り子を出します。2人1組で「柴(榊(サカキ))」を手に、境内の舞堂から「一の鳥居」と呼ばれる大杉まで競走して、その勝ち負けで祭りの役割分担を決めています。
 ところで、「白羽の矢が立つ」は、近年よい意味で使われることが多いのですが、もともとは納田終の伝説にもあるように、神が生けにえとして望む少女の家の屋根に白羽の矢を立てるという「犠牲として選ばれる」意味合いの言葉です。そうした白羽の矢――人身御供の伝説は全国各地にあります。
 京都府に隣接する納田終一帯は、安倍晴明(あべのせいめい)を祖とする陰陽道宗家(おんようどうそうけ)の安倍(土御門(つちみかど))家が南北朝頃から所領とし、歴代朝廷や幕府の庇護のもとに継承した雅(みや)びな雰囲気をもつ土地柄。古くからの身御供祭りや柴走りの神事が納田終で守り継がれているのも、そうした歴史的背景があるようです。白羽の矢が放たれたという集落は、今も白矢(しろや)(白屋とも表記)と呼ばれています。

地図地図

【取材協力】おおい町暦会館・谷川泰信館長、柴走りと身御供祭りの写真提供・(株)高匠(おおい町)

【参考文献】『わかさ名田庄村誌』(名田庄村・昭和46年発行)、『わかさ名田庄村誌II』(名田庄村・平成16年発行)、『名田庄のむかしばなし』(名田庄村教育委員会・平成2年発行)

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