事業所・関連施設

越前若狭探訪

上島用水(池田町)
江戸後期、完成までに40年 山あいの田に今も恩恵

足羽川(鯉谷=志津原集落の奥3km地点)の堰堤(えんてい)に設けられている上島用水の取水路
▲足羽川(鯉谷=志津原集落の奥3km地点)の
 堰堤(えんてい)に設けられている上島用水の取水路
鯉谷滝の前を上島用水が流れています
▲鯉谷滝の前を上島用水が流れています。
上島用水上流の開渠(かいきょ)部分
▲上島用水上流の開渠(かいきょ)部分
月ヶ瀬の水田(6月下旬に撮影)と、パイプライン化される前に使われていた上島用水の水路
▲月ヶ瀬の水田(6月下旬に撮影)と、パイプライ
 ン化される前に使われていた上島用水の水路
パイプライン化された上島用水(志津原キャンプ場付近)
▲パイプライン化された上島用水
(志津原キャンプ場付近)

 池田町月ヶ瀬(つきがせ)は、足羽川(あすわがわ)の上流に位置し、その山あいの盆地には水田が広がっています。担い手不足に悩む山間地ですが、集落営農組織を立ち上げ、農薬や化学肥料を可能な限り減らす“特別栽培米”にも取り組んでいます。
 かつての月ヶ瀬村は、水利が悪く、畑地や荒れ地が多いところでした。水量豊かな足羽川が村の中を流れているものの、その谷は深く、灌漑(かんがい)用水路の敷設(ふせつ)が極めて困難だったからです。用水計画は、昔から何度も出ては立ち消えになっていました。
 江戸時代の後期、この地で代々農業と酒造業を営んできた素封家(そほうか)の当主、上島重兵衛(うえじまじゅうべい)(1760年生まれ。重平とも記され、康房と号する)は、上流の志津原(しづはら)村鯉谷(こいたに)から延長2里(約8km)に及ぶ用水路を引いて、月ヶ瀬村に30町歩(ちょうぶ)(約30ha)の水田を開く計画を立てました。水路の半分以上を隣の志津原村に通すというこの事業は、多くの困難を伴い、莫大(ばくだい)な私財の投入と年数とを要するため、上島家では、たびたび話し合いがもたれました。
 『池田町史』には、身代(しんだい)をつぶすことになりかねないといさめる周囲の声に対し、剛毅不屈(ごうきふくつ)の人であった重兵衛は「この計画は上島家の私事ではない。月ヶ瀬村のために行うものである。身命を賭(と)して公益のために尽くさんとすとるものだ」と語り、傍らに控えていた妻も「身命を賭せば、何事もできないことはありません。もし不幸にして失敗するようなことになったら、あなたとともに喜んで死にます」と後押ししたという話が記されています。
 こうして寛政5年(1793)から計画し、志津原村と用水敷地等の協定を結んで、享和(きょうわ)2年(1802)3月に着工。途中、天狗岩と呼ばれる断崖では、当時、タガネで岩を割るしかなく、作業が進まないうえにケガ人も相次いだため、「天狗が邪魔(じゃま)をする」と恐れて人が集まらなかったことも。工事を中断し、伊勢神宮や金比羅(こんぴら)宮に詣でて祈願ののちに再開したところ、ご利益(りやく)があり円滑に進んだとのことです。
 また、難工事で資金不足が生じたものの、上池田を領有する鯖江藩に願い出て借用を許され、志津原村とは分水問題等が一時こじれるなどしましたが、ようやく天保3年(1832)に完成。上島用水と呼ばれて、月ヶ瀬村30余町歩のほか、志津原村の2町5反(たん)(2.5ha)に水が送られ、飲み水や防火用水にも利用されました。立案から約40年という大事業を成し遂げた上島重兵衛に対し、鯖江藩主の間部(まなべ)公は、その功をねぎらい、永代帯刀(たいとう)を許しました。
 当初は石積みであったとみられる上島用水は、その後、時代の進展とともにコンクリート化され、さらに十数年前には大部分が暗渠(あんきょ)(パイプライン)化されましたが、上島重兵衛が計画し、万難を排して開削(かいさく)した鯉谷からの水路は現在も利用されています。開渠(かいきょ)部分では、地元の人たちが定期的に草刈りや泥上げをして水路を維持管理するなど、先人が築いた礎(いしずえ)の上に、「ふるさとの田畑を荒らしたくない」という思いが美しい水田を守り継いでいます。

地図 地図

【参考文献】『池田町史』(池田町・昭和52年発行)、『上池田村誌』(西村佐太郎著・昭和7年発行)、『池田だより遺産編』(池田町・平成22年発行)

【取材協力】池田町月ヶ瀬・志津原の皆さまからお話を伺いました。

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