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越前若狭探訪

養浩館庭園(福井市)

福井藩主・松平家の別邸 元禄(げんろく)期の姿を忠実に復原

江戸中期を代表する名園として高い評価を受けている名勝 養浩館庭園(旧御泉水屋敷)
▲江戸中期を代表する名園として高い評価を
 受けている名勝 養浩館庭園(旧御泉水屋敷)
池越しに見る数寄屋風書院建築。御座(ござ)ノ間は、藩主の座が設けられた主座敷
▲池越しに見る数寄屋風書院建築。御座(ござ)
 ノ間は、藩主の座が設けられた主座敷
 座敷から眺める広い池を中心とした庭園
▲座敷から眺める広い池を中心とした庭園
来園者が与える餌に集まる錦鯉
▲来園者が与える餌に集まる錦鯉
風呂(蒸し風呂)を備えた御湯殿(おゆどの)
▲風呂(蒸し風呂)を備えた御湯殿(おゆどの)

 名勝養浩館(ようこうかん)庭園は、江戸時代には「御泉水(おせんすい)屋敷」と呼ばれ、福井藩主・松平(まつだいら)家の別邸でした。優美な数寄屋風(すきやふう)書院建築と、広い池を中心とした回遊式林(かいゆうしきりん)泉庭園により、江戸中期を代表する名園として高い評価を受けており、米国の日本庭園専門誌で、足立美術館(島根県)や桂離宮(かつらりきゅう)(京都府)とともに、毎年上位にランキングされています。県内外からの団体客も多く、平成24年度は約5万3千人が来園しています。
 福井城本丸から北東へ約400m、外堀に接するこの地は、3代藩主・忠昌(ただまさ)の時代に藩主の別邸となり、芝原上水(しばはらじょうすい)(初代藩主・結城(ゆうき)秀康が、九頭竜川から城下へと敷設した用水路)を引き込んで御泉水屋敷となったとされています。
 7代藩主・昌明(まさあき)(後に吉品(よしのり)と改名)は大改造を行い、元禄12年(1699)に現在のような建物と庭園が完成。さらに、それまでの御泉水屋敷の西側に自らの隠居所を建てています。吉品の没後は、藩主の側室や子女の住まい、藩の接客施設などとして用いられました。
 明治維新の廃藩置県によって、福井城は政府の所有となりますが、御泉水屋敷は県に移管、それを松平家が買い戻して引き続き保有し、同家の福井事務所や迎賓(げいひん)館として用いられました。
 現在の「養浩館」という名称は、明治17年(1884)に16代藩主・松平春嶽(しゅんがく)が命名。物事にとらわれない、おおらかな心を持つことを意味する孟子(もうし)の言葉「浩然(こうぜん)の気を養う」が語源と言われています。
 しかし、昭和20年(1945)の福井空襲で、建物が焼失。戦後の都市計画によって敷地の一部が道路などで削られましたが、庭園西側に図書館や美術館が建てられるなど、まちなかの貴重な緑地文化施設となり、県民の学習の場や子どもたちの遊び場として親しまれていました。
 昭和57年(1982)、「良く旧態を残した優秀な庭園である」として国の名勝に指定されたのを機に、松平家に残されていた文政6年(1823)の「御泉水指図(さしず)」(元禄の大改造時の様子を踏襲して描かれているとみられる平面図で、建築部材の寸法等も記載)や、戦前の姿を記録した写真などをもとに約8年の歳月をかけて整備が行われました。屋敷から庭を眺める視線の高さを当時の状態に戻すため、発掘された遺構の上に直接建築し、また、用いる材料も写真の肌合いから推測するなどして、「指図」の状態をできる限り忠実に復原する努力を積み重ね、平成5年に完成。今年は、開園から20周年にあたります。4月からは専属の庭師が手入れを行い、趣き豊かな庭園の魅力をさらに高めています。
 広大な池と、水を導き入れる遣水(やりみず)、築山(つきやま)や自然石の石橋などを配した緑豊かな庭、その園池(えんち)と一体化するように建てられた開放感あふれる館-水面に映る新緑や紅葉、墨絵のような雪景色など四季折々に美しく、縁側や座敷にひととき腰を下ろすと、歴代藩主がこの屋敷でくつろいで過ごした時代の雰囲気を味わうことができます。

地図

【参考文献】 『養浩館』(INAX・平成6年発行)、『福井の文化第21号』(福井県文化振興事業団・平成5年発行)、『若越郷土研究第22巻』(福井県郷土誌懇談会・昭和52年発行)、『福井県の不思議事典』(新人物往来社・平成12年発行)
【協力】 福井市教育委員会事務局文化課、福井市立郷土歴史博物館
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