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越前若狭探訪

興道寺廃寺(美浜町)

畑の下から現れた古代寺院 壮麗な伽藍の遺構確認

古代寺院「興道寺廃寺」跡の航空写真
▲古代寺院「興道寺廃寺」跡を南側から撮影した 航空写真。赤四角が興道寺廃寺のおおよその 範囲
(写真提供・美浜町学校教育課文化財室)
興道寺廃寺周辺の古代景観復元イラスト図
▲興道寺廃寺周辺の古代景観復元イラスト図
(美浜町教育委員会作成)
金堂跡の発掘調査で出土した基壇北縁の石積みと基壇周囲の瓦溜まり
▲金堂跡の発掘調査で出土した基壇北縁の石積み
と基壇周囲の瓦溜まり
(写真提供・美浜町学校教育課文化財室)
国道27号線沿いにある獅子塚古墳
▲国道27号線沿いにある獅子塚古墳
弥美神社
▲弥美神社は、耳川流域を治めた
豪族 「耳別氏」の祖先とされる
「室毘古王」を祭神として祭っています。

 7世紀後半から10世紀初め頃まで美浜町の耳川(みみがわ)流域に、壮麗(そうれい)な伽藍(がらん)をもつ古代寺院が存在しました。その場所が興道寺(こうどうじ)地区にあることから、「興道寺廃寺(はいじ)」と呼ばれています。
 現在は畑になっている寺院跡から、これまでの発掘調査で、金堂(こんどう)(本尊を安置する仏堂)や塔、講堂(修行道場)、中門、南門の基壇(きだん)(建物の基礎部分)が確認されています。金堂と塔は、8世紀後半以後に、ほぼ同じ場所で建て替えられていることも判明しました。寺の範囲は、南北約120mほどあったとみられています。
 遺物も多数出土しています。創建期(そうこんき)の建物の軒先に使われた瓦は7世紀後半の白鳳(はくほう)期のもの。それは、仏教によって国の安寧(あんねい)を図る中央政府が、各地の有力豪族に寺院建立を奨励し、各地で造営が進められた時期で、「国分寺建立(こんりゅう)の詔(みことのり)」(741)よりも半世紀ほど前にあたります。
 県内の遺跡では初めて、土造りの仏像の螺髪(らほつ)(毛髪部分)が14点出土しました。大きさと形の異なる2種類があることから、寺院には、少なくとも2体の仏像が安置されていたようです。大きいほうの螺髪から推定される仏像の高さは、坐(ざ)像であれば2.4m、立像なら4.8mにもなります。
 和同開珎(わどうかいちん)、万年通宝(まんねんつうほう)など8世紀の銅製銭貨(せんか)も14点出土。県内では一つの遺跡から発掘調査によって最も多くの古代銭貨が発見された事例だそうです。
 美浜町教育委員会は、昨年3月、これまでの調査結果をもとに、興道寺廃寺の伽藍配置と周辺景観を描いたイラスト(8世紀後半頃を想定)を作成しました。境内に隣接して鍛冶(かじ)工房(寺院の建築・修繕に必要な鉄製品を鋳造(ちゅうぞう))、周辺には集落や古墳群があります。
 耳川流域には、5世紀の終わり頃から豪族が現れ、集落を築いて、須恵器(すえき)(素焼きの土器)製造や海岸での製塩などの生産を支配していきました。6世紀に入ると、豪族は古墳(土盛りをした墓)を造り始め、その一つに獅子塚(ししづか)古墳(美浜町郷市(ごいち))があります。
 この全長32.5mの前方後円墳は、壕(ほり)を周囲に巡らし、墳丘(ふんきゅう)に円筒埴輪(えんとうはにわ)を並べています。内部の石室からは、大陸に起源をもつ角杯形(かくはいがた)の須恵器、メノウや水晶の勾玉(まがたま)(装身具)、鉄製の馬具などが発見されました。被葬者は耳別氏(みみのわけし)ゆかりの人物とみられています。
 若狭の耳別氏は、古事記の中で、開化(かいか)天皇の孫に当たる室毘古王(むろびこのみこ)の末裔(まつえい)とされています。若狭国三方郡から送られ、奈良の藤原京跡や平城京跡で出土した木簡(もっかん)にも、耳別の名が記されています。平安時代の延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に記載され、耳川流域に広く氏子をもつ弥美(みみ)神社(美浜町宮代(みやしろ))の祭神は室毘古王であり、耳別氏が、この地を開拓した祖先を祭った社(やしろ)とされています。
 耳川流域は、大和(やまと)から来住した王族の子孫が、他の氏族とも関わりながら約400年にわたって治めた地域であったと考えられます。興道寺廃寺は、その繁栄を祈願する氏寺(うじでら)として建立され、権勢を誇示するために、伽藍が段階的に整えられていったようです。

地図

【参考文献】 『美浜町内遺跡発掘調査報告書III』(美浜町教育委員会・平成24年発行)、『わかさ美浜町誌〈美浜の歴史〉第1巻、〈美浜の文化〉第2巻・第3巻・第6巻』(美浜町・平成17〜22年発行)、『広報みはまNo.499』(美浜町・平成24年発行)
【写真・資料提供】 美浜町学校教育課文化財室
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