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越前若狭探訪

白鬼女の渡し(鯖江市)

川底から発見された石仏 渡河往来の守り像

尼僧姿のおんばさま
▲写真の中央あたりが、日野川の「白鬼女の渡し」跡と推定される場所。日野川の中下流域は、戦国期から江戸時代に、白鬼女川と呼ばれました。
(白鬼女橋から上流方向を撮影)
御姥女堂
▲「福井江戸往還図屏風」に描かれた白鬼女の渡し
(正蓮花吉澤資料館蔵〔坂井市〕)
小浜西インターの近くから見た岡津地区
▲白鬼女橋下流の川底から発見された
「白鬼女観世音菩薩」。かつて舟渡し場
に「渡河往来の守り像」として、まつられ
ていたとみられています。
岡津の浜辺
▲白鬼女橋の東側のたもと(鯖江市舟津町)にある
白鬼女観世音堂。平成21年に新しく建て替えられて
います。

 今から半世紀前の昭和37年(1962)3月、日野川の河川工事中に、白鬼女(しらきじょ)橋下流の川底、地下約3mのところから一体の石仏が発見されました。翌年、安置するためのお堂が、工事関係者と地元鯖江市舟津(ふなつ)地区の人たちによって橋のたもとに建てられ、以後、「白鬼女観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」と呼ばれて大切にまつられてきました。  つややかな赤銅(しゃくどう)色の石に浮き彫りにされたこの観音さまは、像高約120cm、光背(こうはい)を含む全体は約145cmと、やや大柄(おおがら)で、やさしく端整(たんせい)な顔だちをされています。その仏前には、「白鬼女観世音堂奉賛会」の方が、絶えず花や線香を供えられています。
 お堂の前の道は、鯖江と旧武生(たけふ)の市街地中心部を結ぶ最短コースです。歴史をたどると、白鬼女橋のあたりは、古くから北陸道が日野川と交差する地点で、水陸交通の要衝(ようしょう)でした。
 戦国大名朝倉氏の時代には、兵員を迅速(じんそく)に移動させるため、川幅いっぱいに舟を並べた舟橋(ふなばし)が設けられていました。江戸時代には、幕府の命令で橋が架けられず、現在の白鬼女橋から百数十m上流に舟渡(ふなわた)し場がありました。当時の絵図には、東西両岸に1本ずつ柱を立て、川をまたいで綱を張り、渡し守(もり)が綱をたぐって舟を操る様子が描かれています。
 鯖江市史によると、通常、舟を2艘(そう)用意し、東岸の渡し守小屋に昼夜、人が詰めて、通行人を渡したそうです。舟渡し賃は、武士とその奉公人は無料、一般の旅人からは天候や時刻、濁水(だくすい)時の水深などに応じて、あらかじめ定めた料金を徴収しました。
 白鬼女の渡しは、明治6年(1873)に全長約70mの橋(私営の賃取り橋)が架けられるまで存続しました。その後、洪水による流出や河川改修等に伴い、場所を移して何度か架け替えられており、現在の白鬼女橋(全長約178m、幅13m)は平成20年に竣工したものです。
 また、江戸時代から明治にかけて、白鬼女は、九頭竜川河口の三国湊(みなと)まで約48kmの川筋を川舟(かわぶね)が往来した日野川水運の起点(荷を揚げ降ろしする舟着き場)でした。水量豊富な日野川は、年貢米(ねんぐまい)をはじめとする荷物や旅客の輸送に利用され、北陸道と交わるこの地には、水陸運送の中継を行う上(かみ)鯖江宿(じゅく)が置かれました。
 福井藩は江戸後期に、川舟輸送の拠点として、白鬼女のほか、足羽(あすわ)川の九十九(つくも)橋下、竹田川の金津(かなづ)の3カ所を「三河戸(こうど)」と定めています。しかし、活況を呈した日野川の川舟輸送も、明治29年(1896)の北陸本線・敦賀−福井間の開通により、急速に衰退しました。
 こうした歴史のある日野川の川底から掘り出された白鬼女観音について、お堂の脇に設置されている説明板には、「建立(こんりゅう)時期等については不明だが、『渡河(とか)往来の守り像』として、かつての渡し場にあり、17世紀末の大洪水により流出していた」と記されています。
 川底での永い眠りから覚めた観音さまは、お参りする人や道行く人たちを見守り、両手を胸元で合わせて人々の安全を祈っています。

地図

【参考文献】 『鯖江市史通史編上巻』(鯖江市・平成5年発行)、『鯖江市史民俗編』(鯖江市・昭和48年発行)、『語りぐさ鯖江』(鯖江市文化会議・平成7年発行)
『九頭竜川流域誌』(九頭竜川水系治水百周年記念事業実行委員会・平成12年発行)、『福井県歴史の道調査報告書第2集』(福井県教育委員会・平成14年発行)
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