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越前若狭探訪

戦国の命運を定めた敦賀からの撤退線戦

金ヶ崎の退き口(敦賀市)

天筒山城 主郭跡
▲敦賀湾に突き出た岬の上に築かれた金ヶ崎城。天筒山城とは尾根続きの山城です。(天筒山山頂の展望台=天筒山城の主郭跡=から撮影)

金ヶ崎城と天筒山城の模型(敦賀工業高校建築システム部が製作)。金ヶ崎城跡にまつられた金崎宮(かねがさきぐう)本殿の右側手前に展示。▼
金ヶ崎城と天筒山城の模型(敦賀工業高校建築システム部が製作)

中池見湿地
▲信長軍は、朝倉方の裏を突いて、守りの手薄な東側の中池見から攻め上りました。

堀切(ほりきり)の跡
▲尾根を削り、敵の侵入を防いだ堀切(ほりきり)の跡

金ヶ崎城と金崎宮の本殿
▲金崎宮の本殿と、金ヶ崎の退き口の逸話をもとにした小豆入りの難関突破お守り。▼
金崎宮の本殿と、金ヶ崎の退き口の逸話をもとにした小豆入りの難関突破お守り

 越前一乗谷(いちじょうだに)の朝倉義景(よしかげ)を討(う)つため、敦賀に侵攻した織田信長が、北近江(おうみ)を領する義弟、浅井長政(あざいながまさ)の突然の謀反(むほん)で挟(はさ)み撃ちに−その絶体絶命の危機を辛くも逃(のが)れた「金ヶ崎(かねがさき)の退(の)き口(ぐち)(撤退戦)」は、歴史上の重要な転換点でした。
 それは、湖北の小谷(おだに)城を本拠とする戦国大名、浅井長政を父とし、信長の妹、お市の方を母とする茶々(ちゃちゃ)・初(はつ)・江(ごう)の姉妹にとっては、その後の波乱に満ちた人生の始まりでした。そして、事の成り行き次第では、三姉妹の運命だけでなく、日本史そのものが劇的に変わっていたわけで、「金ヶ崎の退き口」が持つ意味は大きかったといえます。
 戦いの経緯をたどると、永禄(えいろく)13年(1570)4月、信長は大軍を率いて京都から出陣。琵琶湖の西岸を北上し、熊川(くまがわ)(若狭町)を経て若狭に入り、粟屋勝久(あわやかつひさ)が朝倉軍と戦って守り抜いた国吉(くによし)城(美浜町)に陣を構えました。
 当時の敦賀は、朝倉一族が支配。信長は、若狭と越前の国境(くにざかい)である関峠を越えて敦賀に入り、まず、千五百騎余りが立て籠(こ)もる天筒山(てづつやま)城を、約10万余の軍勢で攻撃。双方合わせて数千の戦死者を出し、朝倉勢はほぼ全滅。この惨状に、隣接する主城の金ヶ崎城を守る朝倉景恒(かげつね)は、援軍の到着が遅れるなか、不利を悟って城を明け渡しました。
 さらに勝ち戦(いくさ)の勢いに乗って、先鋒の徳川家康が木ノ芽峠を越え、続いて織田軍が一気に一乗谷へ向かおうとした矢先、「浅井長政が裏切り、朝倉方についた」との急報。周囲を海と山に囲まれた敦賀で、朝倉と浅井の軍勢に南北から攻め込まれれば、補給路と退路を断たれ、“袋のねずみ”となるも同然でした。大急ぎ信長は、わずか10騎ばかりの供とともに、湖西の朽木(くつき)谷を経て、京都へと駆け戻りました。
 長政の裏切りを、信長がいち早く知り、窮地を脱することができたのは、お市の方が、両端を紐(ひも)で結んだ小豆(あずき)袋を金ヶ崎の信長に送り、袋のねずみとなることを暗示して知らせたからだとする逸話も−。
 撤退にあたって金ヶ崎城に残り、追り来る敵を最後尾で防ぐ殿(しんがり)を、信長から命じられたのが、木下(後に豊臣)秀吉で、家康らとともに、生還が極めて難しいとされるその役目を果たしました。ただ、浅井・朝倉勢による追撃は不徹底で、退路を遮断することもなかったといいます。それは信長、秀吉、家康を一挙に討ち取る千載一遇(せんざいいちぐう)のチャンスを失い、後に浅井、朝倉の滅亡を招く結果となります。
 その後、信長と長政が激突した姉川の合戦の後、小谷城での3年にわたる籠城戦の中で、お市の方は江を懐妊しています。始まりは政略結婚でしたが、知勇兼備の武将であった長政と、絶世の美女とされるお市の方は、強い絆(きずな)で結ばれていたといえます。
 天正元年(1573)、朝倉が滅ぶと間もなく、小谷城も落城。この時、長政は、お市の方と幼い姫たちを城から送り出し、自らは死を選びました。三姉妹は、その後、戦国の世に翻弄(ほんろう)されながら、ドラマのごとき数奇な運命をたどることになったのです。

地図

【参考文献】 『敦賀市史通史編上巻』(敦賀市・昭和60年発行)、『戦国三姉妹茶々・初・江の数奇な生涯』(小和田哲男著・平成22年発行)
『織田信長金ヶ崎の退き口』(小学館「真説歴史の道」・平成22年発行)、『その時歴史が動いた17』(NHK取材班編・平成14年発行)
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