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越前若狭探訪

松木庄左衛門(若狭町)

自らの命をかけて 年貢の軽減を実現

農民の神様として松木庄左衛門を祀る熊川の松木神社
▲農民の神様として松木庄左衛門を祀る熊川の松木神社。ここは不思議な因縁ながら、小浜藩の年貢米を収納する米蔵があったところです。

年貢軽減を嘆願する松木庄左衛門像
▲年貢軽減を嘆願する松木庄左衛門像(昭和58年、旧上中町住民センター〔現若狭町上中庁舎〕前に建立、平成21年に松木神社の参道に移転)

庄左衛門が葬られた日笠の正明寺にある五輪塔
▲庄左衛門が葬られた日笠の正明寺にある五輪塔。「松木長操居士」と刻まれています。

松木長操史跡公園
▲平成4年の340回忌で、日笠の北川沿いに設けられた松木長操史跡公園。中央の記念碑は、明治中期に建立されたもの。街道の要所に当たるこの付近が、庄左衛門の処刑地とみられています。

 松木庄左衛門(まつのきしょうざえもん)(法名・長操(ちょうそう))は、江戸時代の初めころの人。「苛酷(かこく)な年貢(ねんぐ)によって疲弊(ひへい)した若狭の農民を救うため、命をかけて軽減を訴え、若くして処刑された義民(ぎみん)」として語り伝えられてきました。かつて若狭の農村では、秋に大豆がとれると一番に神棚に供えて、松木さんのご恩に感謝する習わしでした。今も生誕の地若狭町では、その遺徳を伝えようと、豚汁に大豆を加えたものを「長操鍋」と名付けて、イベントなどで振る舞っています。
 松木庄左衛門は、若狭街道の熊川宿(くまがわじゅく)に近い新道(しんどう)村の庄屋で、庄左衛門を「農民の神様」として祀(まつ)る熊川の松木(まつのき)神社(昭和8年創建)境内には、次のような由緒書(ゆいしょがき)が掲示されています。
 「関ヶ原の戦のあと、若狭の領主となった京極高次(きょうごくたかつぐ)は、小浜湾に臨む雲浜(うんぴん)の地に壮大な城を築いた。そのため領内の百姓には年貢の増徴とか労役の提供など多くの負担がかけられたが、特にそれまで1俵4斗であった大豆年貢が4斗5升(または5斗)入りに増額された。そして、この制度は領主が酒井忠勝(ただかつ)になり、天守閣も造られて新しい小浜城が完成しても改められなかった。
 苦しみにあえぐ百姓たちは、年貢引き下げの嘆願(たんがん)運動を十数年にわたって繰り返したが、小浜藩では全くこれを聞き入れなかった。捕縛投獄(ほばくとうごく)の抑圧にも屈せず、あくまで年貢軽減を訴え続けた新道村庄屋 松木庄左衛門は、慶安(けいあん)5年(1652)5月16日、ついに日笠(ひかさ)川原で磔(はりつけ)の刑に処せられた。
 しかし、忠勝により悲願は聞き届けられ、大豆年貢の引き下げは実現した。時に庄左衛門は28歳の若さであった」
 文献史料としては、酒井家の家臣嶺尾(みねお)信之が享保(きょうほう)5年(1720)に歴代小浜藩主の言行をまとめた書物『玉露叢(ぎょくろそう)』に、若狭の庄屋が共同して大豆年貢の軽減を願い出たことで、忠勝君(ぎみ)が非常に立腹され、頭(かしら)である新道の庄屋を今後の押さえのために処刑すると同時に、その願いの筋も道理にかなっているとして、年貢軽減を許されたことが記されています。
 処刑の後、庄左衛門が葬られた日笠の正明寺(しょうみょうじ)には、寛延(かんえん)2年(1749)に日笠村の人々によって建てられた五輪塔(ごりんとう)があり、現存する最古の墓とされています。このほか井ノ口の常源寺(じょうげんじ)に菩提碑(ぼだいひ)(1761年建立)、処刑後も廃絶にはならず、庄左衛門の実弟が継いだ新道の生家・松木家に墓(1774 年建立)、三宅(みやけ)の久永寺(きゅうえいじ)に菩提碑(1862年建立)があります。小浜藩の怒りに触れることを恐れたためか、いずれも処刑からかなり後になって供養(くよう)が行われており、「松木長操」の法名も小さく刻まれています。
 松木神社総代の宮本重光さんは、「地元、熊川小学校の児童が、年2回、境内(けいだい)の草むしりをしてくれます。松木さんは、若狭全域の農民のために立ち上がり、長く牢獄(ろうごく)に入れられ、他の庄屋が次々と願いを取り下げ釈放されていっても、最期(さいご)まで信念を曲げなかった人。その誇り高い生き方を末永く伝えていきたい」と話されています。

地図

【取材協力】 若狭町歴史文化課
【参考文献】 『松木庄左衛門』(永江秀雄著、上中町教育委員会・平成15年発行)、『若狭の義民』(河村仁右衛門著、松木神社奉賛会・昭和45年発行)、『若狭の義民・別冊義民松木長操伝』(逸見勘兵衛・永江秀雄著、松木神社奉賛会・昭和56年発行)
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