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越前若狭探訪

杣山城址(南越前町)

見所多い中世の山城 山麓に広大な居館跡

城下集落の入り口に設けられた「二ノ城戸」
▲城下集落の入り口に設けられた「二ノ城戸」。今も堀と土塁の一部が残っています。遠景は山城が築かれた杣山。

杣山の尾根筋から見下ろした居館跡
▲杣山の尾根筋から見下ろした
居館跡。建物等の遺構はシートで
保護されています。

山頂の本丸跡から延びる尾根にある「東御殿」
▲山頂の本丸跡から延びる尾根にある
「東御殿」。建物の礎石が確認されています。

「西御殿」の近くにある「殿池」
▲「西御殿」の近くにある「殿池」。杣山城の貴重な水源
でした。

山頂の本丸跡
▲山頂の本丸跡(標高492m)

「袿掛岩」から見下ろした杣山南斜面の急崖
▲「袿掛岩」から見下ろした杣山南斜面の急崖

 北陸自動車道・今庄インターの東側に位置する標高492mの杣山(そまやま)には、鎌倉末期から戦国時代末期までの約250年間にわたり山城(やまじろ)が築かれていました。山頂と尾根には、本丸を中心とした山城、北側山麓の阿久和(あくわ)地区には、城主の居館(きょかん)をはじめ城下集落がありました。
 杣山城跡は、昭和9年と54年に国史跡に指定、昭和40〜50年代にかけて、山城跡を中心とした発掘と保存整備が行われました。 平成11〜18年度には、城主の館とされる山麓の居館跡(約3ha)の発掘調査が実施されています。
 阿久和集落がある谷の入り口には、城下を防御するための「二ノ城戸(にのきど)」と呼ばれる土塁(どるい)と堀の一部が現存しています。山麓の居館跡にも全長が約100mに及ぶ「一ノ城戸」の土塁と堀があり、建物遺構などが確認されています。
 杣山は、珪岩(けいがん)が露出した急峻(きゅうしゅん)な天然の要害(ようがい)です。3本の登山道は、いずれも途中から急勾配になり、道の狭い崖(がけ)の岩場もあって怖い思いをする所も。この山城自体が戦いの場になった記録はありませんが、攻め落とすのが容易ではないことを実感させられます。
 山頂の本丸跡から延びる尾根には、大小の曲輪(くるわ)(平坦面)が多数造られています。「西御殿(にしごてん)」「東御殿(ひがしごてん)」と呼ばれる曲輪群からは、建物の礎石(そせき)が見つかっており、見張り台や兵が駐屯(ちゅうとん)する建物があったようです。尾根筋からは眼下に、旧北陸道が通る日野川沿いの谷を監視することができます。当時、越前の中心であった府中(ふちゅう)(旧武生市街)の南に位置する杣山城は、街道要衝を抑える城としての役割を担いました。
 南北朝から戦国へと動乱の世にあって、杣山城主は瓜生(うりゅう)氏から斯波(しば)氏、甲斐(かい)氏、河合(かわい)氏へと代わりました。元亨(げんこう)元年(1321)ころ、越後から瓜生衡(ひとし)が一族を率いて移り、杣山に築城。 延元(えんげん)元年(1336)から翌年に瓜生保(たもつ)ら兄弟が敦賀金崎(かねがさき)城の新田義貞(にったよしさだ)らと呼応して戦った話は『太平記(たいへいき)』に詳しく記されています。その義貞を倒した斯波高経(たかつね)が、正平(しょうへい)21年(1366)、室町幕府と対立して杣山城に入り、翌年、幕府軍と交戦中に城中で病没。以後、文明6年(1474)までの約100年間は、斯波氏の重臣で越前国守護代(しゅごだい)を務めた甲斐氏が城主に就きました。戦国時代には朝倉氏家臣の河合氏が城主となり、天正(てんしょう)元年(1573)の朝倉氏滅亡とともに杣山城も廃城となりました。
 こうした歴史の舞台となった杣山城には伝説地も多く、新田義貞の夫人・勾当内侍(こうとうのないし)が敵から身を隠したという断崖(だんがい)の岩窟(がんくつ)「姫穴(ひめあな)」や、城主・瓜生保の戦死を知った妻や侍女(じじょ)たちが袿(うちかけ)を掛けて飛び降りたとされる「袿掛岩(うちぎかけいわ)」の絶壁などがあります。
  南越前町教育委員会の玉村幸一学芸員は、「出土した土器や陶磁器などは、おおむね14世紀末から15世紀後半までの甲斐氏の時代のもので、主にその約100年間に広大な山城や居館、城下の整備が進められたものとみられます。杣山城跡は、一乗谷朝倉氏遺跡よりも前の時代のもので、地形的にも似ており、一乗谷の”原形”になったとも考えられます」と話しています。

地図

【取材協力】 南越前町教育委員会事務局
【参考文献】 『史跡杣山城跡I』(南条町教育委員会・昭和53年発行)、 『史跡杣山城跡III』(南越前町教育委員会・平成19年発行)、『史跡杣山城と瓜生保』(南条町・昭和48年発行)
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