事業所・関連施設

越前若狭探訪

若州一滴文庫(おおい町)

水上文学の世界を伝える蔵書や絵画、竹人形

3基の五輪塔が並ぶ「蝉丸の墓」
▲左は六角堂(休憩所)。右奥は図書室や資料室、ギャラリーがある本館。このほか、竹人形館、くるま椅子劇場などがあります。

百人一首にある「これやこの…」の蝉丸の歌が刻まれた石碑
▲水上氏の蔵書など約2万冊が並ぶ図書室

陶の谷の真ん中に位置する越前町野の集落
▲本館1階では、水上氏と交流のあった画家の
作品を定期的に入れ替えて展示。

蝉口集落の案内看板
▲約60体の人形と約250点の頭が並ぶ竹人形館。
一つ一つに魂が宿っているかのようです。

舟場地区にある「蝉丸の池」
▲くるま椅子劇場(中央舞台の奥は竹林)

岡田集落にある水上氏の生家跡(中央の平地)
▲岡田集落にある水上氏の生家跡(中央の平地)

 水上勉(みずかみつとむ)氏(1919〜2004)が、生まれ故郷に「若州一滴(じゃくしゅういってき)文庫」を開設して、今年の春で25周年になります。
おおい町岡田(おかた)の生家跡は、「乞食谷(こじきだん)」と呼ばれたところにあり、水上氏は、埋葬地と隣接した、水も電気も引かれていない木小舎(きごや)で育ちました。
 「父は大工であり、母は農婦であった。ともに貧しい家のうまれ、とりわけ父は盲目の母に生まれ、そこへ十六歳の母が嫁入りしてきて、私ら六人の子をうみ、私はその二ばん目で、盲目の祖母に負われて育った。」(水上氏の自伝『わが六道の闇夜』から原文のまま)
 10歳で、京都の禅寺へ小僧として出されます。寺の掃除や食事の世話、子守りをしながら学校に通う毎日で、「私はまだ母の保護なしに生きてゆけぬ泣き虫であり、自分の意志など働いていない『出家(しゅっけ)』だった」と記されています。
 昭和11年、17歳のとき、社会や禅寺の生活に対する反発と、兵隊に行く前に一度は世の中に出て自由な暮らしをしてみたいという思いから、寺を飛び出します。膏薬(こうやく)の行商などをしながら、翌年には立命館大学の文学部国文科に入学し中退。満州に渡り、肺結核を患って帰国。さらに、さまざまな職業を遍歴しながら小説を書くものの認められず、経営した会社の倒産や数回の結婚と離婚…作品と同様に実生活も波乱に満ち、ドラマチックでした。53歳のときに書かれた前出の自伝には、「蓮華(れんげ)の咲く泥中にいて私はいつまでも花を仰いでいたい」とあります。
 直木賞を受賞した『雁の寺』をはじめ水上作品は、若狭の風土と実人生がその根っこになっています。「若州一滴文庫」を訪れると、水上氏の生きざまや文学世界が身近なものとして迫ってきます。
 同文庫は、水上氏が主宰した若州人形座の拠点、また宗教・文学・美術などの資料を展示する施設として、私財を投じ昭和60年3月に開館。蔵書約2万冊の図書室や展示室をもつ本館のほか、竹人形館、くるま椅子劇場、六角堂(休憩所)などがあります。
 「若州一滴文庫」の名は、同町大島出身の儀山善来(ぎざんぜんらい)禅師の教え「一滴の水を惜しめ、草や木の命の声を聞け」に由来するものです。
同文庫の名の通り、この施設が”一滴の水”となって、草木が育つように、子どもたちが本を読み、何かを見つけ、人生を切り開いていくことを水上氏は願いました。「家には電燈もなかったので、本もよめなかった。ところが諸所を転々して、好きな文学の道に入って、本をよむことが出来、人生や夢を拾った」のだと。事実、同文庫などを舞台に水上氏と交流する中で、若い人たちの多くが芸術やものづくりの分野へと羽ばたきました。
 同文庫は、その後、水上氏から町に主要施設が寄贈され、地元の有志により設立されたNPO「一滴の里」によって現在、運営されています。「ひっそりとしたたたずまいのなか、安らぎを感じていただける一滴文庫であり続けたい」と話す森口精治事務局長。春の訪れとともに庭園には、また木々の花が咲き、水上氏の遺志は、次の時代へ受け継がれていこうとしています。

地図

若州一滴文庫開館 9:00〜17:00、火曜休館(祝日の場合は翌日)、入館料・大人300円、TEL:0770-77-2445
【取材協力】 特定非営利活動法人「一滴の里」の森口精治事務局長、時岡博嗣学芸員からご教示をいただきました。
【参考文献】 水上勉著『若狭幻想』(昭和57年)、『わが六道の闇夜』(昭和48年)、『泥の花』(平成11年)
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