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ふるさと再発見

国吉城址と佐柿(美浜町)

 戦国時代に壮絶な籠城(ろうじょう)戦を繰り広げ、難攻不落の城として知られた国吉城(くによしじょう)。平成12年から城跡の発掘調査が進められ、これまでに城山(しろやま)(標高197m)山麓の城主居館(じょうしゅきょかん)跡で大規模な石垣や礎石立(そせきたち)建物跡が発見されているほか、昨年着手した山頂周辺の山城跡の調査では、堀切(ほりきり)の斜面から石垣が現れ、本丸跡付近でも建物の痕跡(こんせき)が確認されています。平成21年春に「若狭国吉城歴史資料館」がオープン、戦国の歴史に関心が高まる中で、国吉城址(じょうし)と城下町・宿場町の名残(なごり)をとどめる佐柿(さがき)の町並みを訪れる人が増えています。

取材協力・若狭国吉城歴史資料館
平成22年12月23日、23年1月8日に取材


城山山頂の本丸跡 本丸跡(城山)、城主居館跡、若狭国吉城歴史資料館
国吉城址〈山城〉
国吉城址(山城)
本丸跡から椿峠方向に伸びる尾根を分断する堀切(敵の侵入を防ぐために掘られた溝)の発掘調査で、石垣(上部は崩落)と橋脚の礎石とみられる平石が発見され、昨年12月23日に現地説明会が開かれました。
この発掘の際に、地中から石仏や墓石が出土。籠城戦で、攻め登ってくる敵に向けて投げ落とすために、麓から山城へ運び上げたものとみられます。▼
国吉城址〈山城〉
国吉城址〈山城〉 城山山麓の城主居館跡
城山山麓の城主居館跡。シートのところが礎石立建物(16世紀後半頃)跡です。
左城山山頂の本丸東側で見つかった建物の痕跡とみられる石列。本丸跡は、今後、本格的な発掘調査が行われる予定です。

戦国動乱の歴史と深い関わりを持つ国吉城
 国吉城は、戦国時代に若狭武田氏の重臣、粟屋越中守勝久(あわやえっちゅうのかみかつひさ)が築いた山城。長年にわたり幾度も越前朝倉氏の軍勢が国吉城に攻め寄せましたが、粟屋氏は近隣の地侍(じざむらい)や百姓衆とともに籠城(ろうじょう)し、果敢に戦って守り抜きました。元亀(げんき)元年(1570)、織田信長が朝倉氏を攻めるため、木下藤吉郎(豊臣秀吉)や徳川家康を伴って国吉城に入った際には、粟屋氏の武勲(ぶくん)を大いに称賛したと伝えられています。その数日後、信長が敦賀の金ヶ崎(かながさき)・天筒山(てづつやま)の両城を攻め落としたところで、北近江の浅井長政(あざいながまさ)の裏切りを知り、秀吉が殿(しんがり)を務めて無事に退却した話は有名です。
 のちに秀吉と柴田勝家が戦った賤(しず)ヶ岳の合戦の前には、秀吉方の前線拠点として国吉城の修築が命じられています。この戦いで手柄を立て国吉城主となった木村常陸介定光(ひたちのすけさだみつ)は、佐柿を城下町として整備。関ヶ原の合戦後、若狭国主となった京極高次(きょうごくたかつぐ)は、町の入口に関所を設けました。国吉城廃城後、初代小浜藩主酒井忠勝(ただかつ)は、佐柿に町奉行所と御茶屋屋敷を置き、江戸時代には丹後街道の宿場町として栄えました。

国吉城の本丸跡から望む山東地区 徳賞寺の山門。
▲国吉城の本丸跡から望む山東地区
徳賞寺の山門。上層に縁を巡らせた鐘楼門(しょうろうもん)です。右
徳賞寺の本堂
徳賞寺(とくしょうじ)。
▲国吉城主粟屋勝久が籠城戦の死者を供養するため、寺領を寄進して創建した徳賞寺(とくしょうじ)。曹洞宗で、本堂は美浜町内で最も古い江戸中期の建築。開基として勝久の位牌がまつられ、墓地には墓と伝わる五輪塔があります。

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