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「『都市文化』への視点──『多様』が上方の『一途』を創る」

地名に見る「上方・大阪」の面影:

●大阪・地名の由来
あびこ
[我孫子]
古代、海に面していたこの地に「依羅吾彦」(よさみのあびこ)一族が住んでいたことに由来。よさみとは「寄網」、あびことは「網曳」のこと。西暦546年に百済の聖明王から贈られた観音像が、今のあびこ観音に。
あべの
[阿倍野]
諸説があり、古代、孝元天皇の皇子大彦命を祖する阿倍氏という豪族が、この周辺地域に居住したとする説が有力。異説に、村岡良弼・吉田東伍両博士の餘戸(あまべ)郷の「ま」が省略されてあべになったという説、また万葉集・夫木集にある阿倍島説、ほかに痾免寺説や、平安時代の陰陽師・安倍晴明、阿倍王子に由来する説などがある。
あまのがわ
[天野川]
古墳時代、重宝な米ができる不思議な野、有り難い川の水に恵まれた稲作地を讃えて「あまの」(甘野)と言い、川を「あまのかわ」(甘野川)と呼んでいた。また、古来より渡来人が居住し、帰化人の百済王氏と関係の深い桓武天皇がこの地で北斗七星を祭ったことから、陰陽道の影響で天体に興味を持っていた平安貴族が「天野川」と名づけたと言われている。川の上流には「羽衣伝説」も残る。
あみじま
[網島]
「摂津名所図会大成」に「此地ハ淀川のつゝみにして漁家つらなり鮮魚を多く市に出す。さる程に軒毎に終日網を干ゆへ」と記されているように、古くからの漁村で、網が干されていたことに由来。近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」で有名。
あみだいけ
[あみだ池]
古代、蘇我氏と物部氏が仏教を受け入れるかどうかで争ったとき、排仏派の物部氏が仏像(阿弥陀如来)を「難波の堀江」に投げ捨てた地、というのが由来。
あわざ
[阿波座]
古くから阿波(徳島)の商人がこの地に住みついて座をつくり商いなどをしていたことに由来する説と、この地が阿波屋(西村)太郎助の所領地であったからとする説の2説がある。
いかいの
[猪飼野]
「日本書紀」に記された、文献上日本最古の橋「猪甘津(いかいつ)の橋」が由来。「猪甘」は、猪飼・猪養と同意で、朝廷に献上する猪を飼育していた猪飼部(いかいべ) の住居地だったと考えられている。「猪」は、野生のイノシシではなく、渡来人が大陸から持ち込んだブタと言われている。
いしきり
[石切]
「饒速日尊」(にぎはやひのみこと)を御祭神にした「石切劔箭(つるぎや)神社」があることから。「石切劔箭」とは、石を切る鋭い剣や矢を意味する。
いたちぼり
[立売堀]
大坂冬の陣・夏の陣で、伊達家が陣所を設けた要害の堀だったのを、さらに掘り進み開発したもので、当初は伊達堀(だてぼり)と呼んだ。その後、伊達(いだち)が伊達(いたち)に転訛、のちにこの地で材木の立ち売りが許可されると、立売堀と書いて「いたち堀」と 読むようになった。
いばらき
[茨木]
大同2年(807年)、征夷大将軍坂上田村麻呂が野茨の木の原野を切り開いて田畑と集落をつくったのが由来とされる。渡辺綱と戦った、鬼・茨木童子の伝説がある。
うつぼ
[靱]
豊臣秀吉が大坂市中巡視をしたとき魚売り商人の「やすい、やすい」の声を、「矢栖(矢巣)とは靱(矢を差し入れる道具)のことだろう」と言ったのを商人らが上意と受けとめ、一帯を靱町と名付けたとされる。
うなぎだに
[鰻谷]
史料によれば、「空堀またはその北部の谷筋に当たる所が西へかけて幾分かの高低を残し、この凹地が鰻と何らかの関係あり」とのことで、凸凹した地勢から名づけられた。
うめだ
[梅田]
淀川河口部で、もとは泥田であったのを埋め立てて土地を造成したことから、埋田(うめだ)。のちに「梅田」に転訛。
うりわり
[瓜破]
古来より瓜(西瓜)の産地であり、大化年間(645〜649年)道昭法師が当地の庵で祈念の最中、天から光明のさしたご神体が降ってきたので、瓜を割(破)って供えたことが由来という説と、弘法大師が高野山へ登る途中、この地を通り、水を所望したところ、住民が瓜を割(破)ってさしだしたことが由来という説がある。
えびすばし
[戎橋]
今宮戎に参詣するとき通る橋だったことが由来。
おおさか
[大阪]
地形に由来するといわれている。古代は「小坂」だったが、後に「大坂」となり、坂の字が土に返るという意味を連想させることから「大阪」に改称した。
かたの
[交野]
古来よりの名称。丘陵と平地が交迭(かたがた)に存するからという説、また淀川流域の低地から見ると丘陵上の平地とも見えるので「肩野」と称せられたという説もある。
かたまち
[片町]
京街道沿いの町で、道の北側のみに人家があったことが由来とされる。
がもう
[蒲生]
古来、蒲穂の産地だったことが由来。文保元年(1317年)僧法蓮が奉進した「薬師寺鐘銘(やくしじしょうめい)」に摂津国榎並蒲生薬師寺とある。
きさいち
[私市]
「日本書紀」敏達天皇のくだりに、「私部(きさべ)」を置いたとあることが由来。「部」は天皇家の領有民を示し、「私部」は后妃(きさき)の部として、私部市(きさべいち)と言われたが、やがて「きさいち」になった。
きしべ
[岸部]
渡来人と推定される難波吉師部(なにわきしべ)が居住していたことが由来。この氏族は、来師部楽・古志舞と呼ばれる独特の音楽を持っていた。
きたばたけ
[北畠]
南朝の闘将、女性と見まがうばかりに美しく花将軍と呼ばれた北畠顕家が、弱冠21歳で討ち死にした場所であるというのが由来。
きょうばし
[京橋]
京街道の起点にあたり、京都へ通じる橋という意味から名づけられた。江戸時代には橋の欄干の柱頭に宝珠の飾りの載った公儀橋であり、往時は野崎まいりの人々で賑わった。
きれ
[喜連]
古代、中国大陸・呉の国から帰化した呉人(伎人=クレ)が住みついたことから、「伎人郷」となり、「喜連」に転訛。
くじょう
[九条]
江戸時代には運河の中の出島であり、儒学者・林羅山が「衢壌島」と命名したことが由来。のちに「九条」と転訛。
くだら
[百済]
663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に攻め滅ぼされた百済から渡来した百済王一族が居住したことに由来する。「日本書紀」に「百済王善(禅)光王以て難波に居べらしむ」と記されている。
こうらいばし
[高麗橋]
古代、朝鮮からの使節を迎える迎賓館「高麗館(こまのむろつみ)」が橋の近くにあったことに由来する説が有力。他に豊臣秀吉の時代にこの橋の周辺で高麗との貿易が盛んになり、商人らが集まっていたので高麗橋と呼ばれるようになったとも言われている。
さかい
[堺]
平安時代、摂津・和泉・河内という3つの国の境にあったことが由来とされる。旧市街地の東に、「三国ヶ丘」という地名があることからも3国の境であったことがわかる。
さなだやま
[真田山]
大坂合戦で豊臣方の武将・真田幸村が、出城「真田丸」を築いた場所というのが由来。大阪城から続いていたという伝説が残る史跡「真田の抜け穴跡」がある。
しぎた
[新喜多]
元禄時代に川の跡を新田にした際、開拓に参加した鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛の名前から一字ずつとったもの。
しのだやま
[信太山]
古代、この地を切り拓いた渡来系氏族信太首(しのだのおびと)に由来。「葛の葉伝説」(和泉の国の信太の森に住む狐が人間の女に化け、命を助けてくれた安倍保名との間に子をもうけるが、正体を見破られ、「恋しくばたずね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」と歌を残して森に帰る。生まれた子が安倍晴明と伝わる)が残っている。
じゅうそう
[十三]
由来は諸説あり、阿倍野を起点とした古代の条里制で13番目にあたるという説、淀川上流から数えて13番目の渡しがあったという説、潮の干満で見え隠れする干潟や小島を十三島と総称したという説、戦国時代、自害した武将や家族を供養した「十三塚」があったという説などがある。
しんさいばし
[心斎橋]
1622年、長堀の富商・岡田心斎が架けた木橋に由来。
しんせかい
[新世界]
明治時代の一大イベント1903年の「第5回 内国勧業博覧会」の会場跡地再開発でできたことに由来。
すみよし
[住吉]
「風土記」によると、神功皇后が神の鎮座する場所を探していたとき、この地を「真住み吉し、住吉(すみのえ)の国」といったことが由来とされる。
せいめいどおり
[晴明通]
安倍晴明を祀る安倍晴明神社に由来。
せんにちまえ
[千日前]
千日ごとに念仏供養を行っていた法善寺と竹林寺の前、というのが由来。かつては刑場、火葬場、墓地が並んでいた。
せんば
[船場]
諸国から物資を運んでくる船が着く「船場」という説、海岸の波が打ち寄せていた「千波」「仙波」、軍衆が水浴した場所「洗場」、大阪城の馬を洗う「洗馬」、この地域で戦争が多かった事から「戦場」などの説もある。
たまつくり
[玉造]
「日本書紀」に「難波の玉作部」という一説があり、古墳時代、難波の玉作部の人々が集団で住み、勾玉を製造していたことが由来とされる。
ちゃやまち
[茶屋町]
明治中期までの大行楽地、かつては梅の名所であちこちに花見茶屋があったことに由来するとされている。
つくだ
[佃]
平安時代の豪族・佃氏が開拓した地。江戸時代には佃千軒と呼ばれる漁師の村になり、徳川家康が多田神社に参詣する際、神崎川に船を出して奉公したことが認められ、江戸城に魚を献上する勤めを仰せつかった。のちに江戸の鉄砲洲の干潟を埋め立てる許可を得て移住、江戸に佃島ができた。
つるはし
[鶴橋]
平野川に架かる橋のあたりに鶴がたくさん群れで飛んでいたことから、「鶴の橋」。のちに「鶴橋」に。かつては河内や大和への交通の要衝だった。
てんがちゃや
[天下茶屋]
約400年前、茶の宗匠として名高い武野紹鴎(たけのじょうおう)の居住跡に芽木小兵衛が茶店を開いた。豊臣秀吉が住吉大社に参拝し、この茶店に立ち寄って茶の湯を楽しんだのが由来。太閤殿下の「殿下茶屋」が転じて「天下茶屋」に。
てんのうじ
[天王寺]
聖徳太子が廃仏派の物部守屋を討とうと護国神である持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王に戦の勝利を祈願し出陣、物部一族討伐に感謝し、593年上町台地の中心部へ「四天王寺」を建立したことに由来。
でんぽう
[伝法]
古代の仏教伝来時、経文が着いた地であるからという説と、平安時代末、鳥羽上皇が高野山に伝法院をつくったとき、その用材がこの地に着いたからという説がある。
てんぽうざん
[天保山]
天保2年(1831年)に行楽地として開発された、高さ約20mの人工の山に由来。
どうじま
[堂島]
聖徳太子の四天王寺創建時、建築用材の運搬船が暴風雨で難破、洲の中に流れつき、「薬師堂」を建てたことに由来。他に鼓の胴の格好をしているからという説も。
どうとんぼり
[道頓堀]
「大坂の陣」の直前、1612年に安井道頓によって掘削が始められたことに由来。
どしょうまち
[道修町]
中国の馬栄宇という医師が来朝、長崎で生まれた子供の「北山道修」が大坂で医院を開き、その門前に薬種の店が集まるようになったからという説。他に、大阪城築城前、この地が「道修谷」(どうしょうだに、どうしゅだに)と呼ばれていたからという説。かつて「道修寺」という寺があり、寺の名前に由来するという説。文禄2年(1593年)、本願寺の教如上人がこの地に渡辺御坊という寺(後に本町・南御堂に移転)を建て、その関係者である「堂衆」が多く住むようになったからという説がある。
なんば
[難波]
古代、上町台地の下あたりまで海が入り込んでおり、「日本書紀」によれば「なみはやの訛なまれるなり」──浪が速いというのが由来とされる。
はぜ
[土師]
4世紀後半に中国や朝鮮からの渡来人、優れた土器づくりの技術を持つ「土師」が定住したことが由来。
はなてん
[放出]
由来には諸説があり、まず、熱田神宮から「天叢雲(あまのむらくも)の剣」を盗んで逃げた新羅の僧を乗せた舟が、暴風雨に遭い難破してこの地に漂着したとき、剣を「放」り「出」したことによるという説。また、天智7年(668年)、この地に「牧」をおいて多くの馬を放し飼いにしたことによるという説もある。さらに、仁徳天皇の頃にも旧大和川の氾濫が多かったことから、この地に樋を作りその水を調節して水を「放」ち「出」したことが由来とする説などがある。かつては「はなちでん」「はなちで」と称していたのが転訛した。
はびきの
[羽曳野]
「日本書紀」「古事記」などに見る日本武尊伝説(東方征討の帰路に没した日本武尊が、白鳥に化身して羽を曳くがごとく飛び去った)に由来。
ひらかた
[枚方]
「日本書紀」、神武天皇東征説話の「白肩(しらかた)之津」が由来とされる。白肩は白潟のあて字で、古代この地は白波が立ち寄せる岸であったらしい。他の説に、枚方の「枚」は「平」で平らなことを意味し、「方」は「地方」あるいは「潟」、枚方とは「淀川が形成した平らな潟の上に開けたところ」という説もある。
ひらの
[平野]
平安時代初期、蝦夷征伐で知られる征夷大将軍坂上田村麻呂の子・広野麻呂の領有地となり、のちに「広野」が「平野」に転訛。別に、かつては広く平らな原野であったことから「平野」になったとする説もある。
まつばら
[松原]
「日本書紀」によると、反正天皇が丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)を置いたとされ、この丹比柴籬宮跡が「松生いし丹比の松原」といわれたことが由来。
みどうすじ
[御堂筋]
北御堂(本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)があったことに由来。
みのお
[箕面]
樹々の間から落下する滝の形が、農具の「箕」に 似ていることから箕面滝と呼ばれるようになり、地名の由来に。
みやこじま
[都島]
難波宮、仁徳天皇の高津宮、孝徳天皇の長柄豊碕宮の近くだったことから名づけられたとも、難波宮の向こうの地であったことから「宮向島(みやこじま)」が転訛して都島になったともいわれている。
もす
[百舌鳥]
「日本書紀」によれば、仁徳天皇陵の造営時、シカが野から走り出て、工人にぶつかりそうになる直前に倒れた。そのシカの耳からモズが飛び去ったので、この地を「百舌鳥耳原」と号したことに由来。
やお
[八尾]
古代、弓を作る弓削部(ゆげべ)、矢を作る矢作部(やはぎべ)の集落があり、ここで作った矢を背負って運ぶことから「矢負い」が「矢尾」になり「八尾」になったという説。他に、道鏡が西の京(由義宮)を八尾に造営するため、大和川の洪水を防ぐ堤を造ったとき打ち込んだ杭が数えきれないほどたくさん(=八百)だったことから、転じて「八尾」になったという説。尾羽根が八枚もある「八ツ尾のうぐいす」がいたからという説などがある。
ゆうひがおか
[夕陽丘]
鎌倉時代の歌人・藤原家隆がこの地に庵を結び、夕陽庵(せきようあん)と名づけ、「ちぎりあれば なにわの里に宿り来て 波の入り日を拝みつるかな」と詠んだことが由来とされる。
ゆさと
[湯里]
神功皇后の時代に温泉が湧き出したという話が由来。湯里住吉神社南側の「覚林寺」境内に、大量の温泉が湧出したといわれる井戸がある。
よつばし
[四つ橋]
長堀川と西横堀川が交差するところにかかっていた四つの橋(上繋橋、下繋橋、炭屋橋、吉野屋橋)が由来。「涼しさに四つ橋を四つ渡りけり」という小西来山の句がある。
よどやばし
[淀屋橋]
江戸時代、米市に便利なように豪商・淀屋辰五郎が架けた橋が由来。
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