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内田 樹・神戸女学院大学文学部総合文化学科教授

2008.02.01
「『変革』は本当に必要なのか」

内田 樹・神戸女学院大学文学部総合文化学科教授

内田 樹  うちだ たつる
神戸女学院大学文学部総合文化学科教授(フランス現代思想、映画論、武道論)
1950年東京都生まれ。東京大学文学部卒、東京都立大学大学院人文科学研究科仏文学専攻博士課程中退。東京都立大学助手、神戸女学院大学助教授を経て、教授。著書「疲れすぎて眠れぬ夜のために」「下流志向─学ばない子どもたち、働かない若者たち」「私の身体は頭がいい」「態度が悪くてすみません─内なる他者との出会い」「知に働けば蔵が建つ」「先生はえらい」「他者と死者」「死と身体」「街場の中国論」「街場の現代思想」「子どもは判ってくれない」「東京ファイティングキッズ」「ためらいの倫理学」「『おじさん』的思考」「寝ながら学べる構造主義」「レヴィナスと愛の現象学」、共著「逆立ち日本論」「身体知」「健全な肉体に狂気は宿る」「14歳の子を持つ親たちへ」「身体の言い分」など。合気道6段。


http://blog.tatsuru.com/

変革、変革、と最近よく耳にする。
でも、本当に変革は必要なのだろうか。どこにどういう補正が必要なのかを吟味しないまま、「変革」という言葉だけが先走ってはいないだろうか。
システムが部分的に不調なだけのときに、システムを抜本的に変革することは無意味だし、しばしば有害である。部分的な修正で済むのか、アッセンブリごと交換する必要があるのかについて、自動車のサービスはきちんと説明してくれる。しかし、それよりはるかに影響が甚大であり、桁外れのコストを要する社会システムの変革については、手直しで済むのか、「全とっかえ」が必要なのかについての計量的な議論にはほとんど誰も興味を示さない。そして、「抜本的改革」という勢いのいいスローガンだけが呪文のように行き交っている。

船が座礁して浸水したとき、まずすべきことは、浸水場所を特定し、どの程度の被害かを評価し、補修の手だてを具体的に考えることである。浸水しているときに、「そもそも座礁したのは誰のせいだ」と犯人探しをすることは無意味であるし、「システムごと全て取り替えましょう」というようなことを言っても始まらない。船が沈みかけているときには最優先するのは原因究明ではなく、被害評価である。どこがどの程度傷んでいるのか、あとどれくらい保つのか。手元にはどれだけのマンパワーと資材が残されているのか。それをクールに計量的に判断した上で、使えるものをすべて使って沈没を防ぐこと、それがシーメンの心得である(と外洋航路の航海士であった池上六朗先生から教わったことがある)。

座礁した船のように、閉じられた空間、限られた時間の中で、有限のマンパワーと資材だけでシステムの延命をはかるときには、「ありもの」をその本来の用途以外に使い回すことが必要になる。道具をその本来の用途以外に使い回すことを構造人類学の用語で「ブリコラージュ」と言う。ブリコラージュ(ありあわせのもので何とかつじつまをあわせること)の基本は、どのようなものを見ても「これには何か使い道があるんじゃないか?」と考えることである。最近の日本人にいちばん欠けているのは、このブリコラージュの感覚であるように私には思われる。私たちには自分たちの社会が有限なリソースでできているという基本的認識が欠けている。深刻な被害が出ているのに「大丈夫です」と言い募り、何も手を打たないまま被害を拡げて逃げ出す人間がいる一方で、ちょっと壊れただけなのに「もうダメだから新しいシステムに取り替えよう」と言い出す人間がいる。メディア上では前者が「バッドガイ」で後者が「グッドガイ」に類別されるが、どちらも社会的リソースは有限だということを忘れている点では同類である。

隙間風が吹き込むからといって、家一軒丸ごと建て直す必要はない。テーピングで直るならそれで十分である。教育問題でも、日本の学力低下を防ぐ一番シンプルで効果的な方法は教育システムの根本的改革ではなく、学費を下げることである。70年代から国公立学校の学費を政府は「受益者負担」の原理で上げ続けてきた。その結果、進路の決定権は出資者である親に一元化し、教育費の高騰は「教育投資」という言葉を生み出した。進路の選択において自己決定権を奪われた子どもたちが、「親の決めたレール」の上で高い知的アクティヴィティを展開するとは考えにくい。現代の子どもたちの決然たる「学ぶことの放棄」の少なくとも一部は、「私は投資の対象ではない」という子どもたちからの痛ましい異議申し立てである。国公立学校の学費を下げれば、本当に自分の好きな道に進みたい子どもたちは昔のようにアルバイトしながら「苦学」するようになるだろう。

システムを構成するピースを一つ一つ点検していけば、小さな「手直し」がドラスティックな効果を上げることもある。日本の社会システムはたしかに不調なところもあるが、総じてかなり健全に機能している。感情的に「変革を!」とわめき立てるよりは、冷静に客観的にテクニカルに、システムのどこが不調かを調べ、問題箇所を一つずつ補修してゆくという態度を保つべきだろう。すべてを一気に正すという社会改革プランは必ずそれがもたらすメリット以上の予想外のデメリットをもたらす。変革はつねに考量可能な範囲で少しずつ行う方がよい。カール・ポパーは「ちょっとずつ変革する」ための学知を「ピースミール工学」と名づけたが、今の日本人にもっとも欠けているのは、この「ピースミール工学」的な発想だろう。

平たく言えば、今、日本人全体が幼児化している。「子ども」の特徴は、文句をつけていれば、どこかにいる「大人」が何とかしてくれるという考え方をすることである。「私にはこれが我慢できない。なんとかしろよ」という不満のリストをできるだけ長くしていれば、そのうち「誰か」がそのリスト通りの社会改革を実施してくれると思っている。それは無人島に流れ着いた人が毎日「必要品リスト」をひたすら長くしてゆくうちに欲しいものがすべて揃うと夢想しているようなものである。リストの受け取り人はどこにもいない。そのリストは自分自身以外に宛先のないリストなのである。中学生ならともかく、選挙権を持つ大人は「何とかしろ」という言葉づかいは自制すべきだろう。「文句リスト」を長くする暇があったら、その中の一つでも自力で実現できることのために動き始めた方が話が早い。

このような「子ども」ばかりで国家システムが運営できるのだろうかと心配する人がいるだろうけれど、私はそれほど悲観的ではない。全員「大人」になれというのはどだいムリであるし、そんな必要もない。私は日本人の7%くらいが「大人」になればシステムの管理運営には致命的な支障はないだろうと思っている。システム全体の状況を冷静に判断でき、自分の責任範囲の仕事はきちんと処理できる「大人」が社会の枢要なところにいれば、システムはそんな簡単には破綻しない。社会成員全員が大人でなければ維持できないような制度設計であれば、とうの昔に人類は滅びているはずだからである。経験的に言って、成員中の大人率は5%を切ると危機的で、7%でぼちぼち、10%を超したら好調、15%に達したらこの世の楽園である。今の日本は大人率5%程度まで下落しているので、これをあと2%戻したいというのが私の考えである。それでもとりあえず93%の方々は「子どものまま」でいていただいても結構なのである。だから、私が今しゃべっていることも「大人」と「大人になりたい」と思っている若い人たち相手の話であって、「子どものままの方が楽でいい」という方向きの話ではない。ということは、90%強の方は、こう言われて「むかっ」と来るはずである。それはその方が「子ども」だからであり、「子どものままでいたい」のであるから、むかつくのが当然なのであるし、むかつくのを止めて欲しいとも私は思っていないのである。

私にとって、具体的に理想的な社会は50年前の1958年前後である。当時、私たちの親の世代は、終戦で従来の社会システムが崩壊するのを目の当たりにしていた。だから非常に冷めたリアリストの一面を持ちながら、一方では新しい社会を創ろうという気概にあふれてもいた。戦後社会の貧困とアノミーを生き延びなければならないというリアリズムと、戦争を生き延びてこれからゼロから新しい社会をつくるという浮き立つような使命感の不思議なアマルガムがその時代の空気に濃密にたちこめていた。いわばすれっからしのリアリズムと無防備なほどの理想主義が車の両輪としてうまくバランスがとれていたのが1950年代の日本だったと思う。それが、60年代を迎え、東京オリンピックの頃から、リアリズムの方だけが増殖して、イノセントな理想主義は影を消した。それは同時に、すさまじい勢いで日本の街と自然が汚れていった時代でもあった。山が切り開かれ、海岸が潰され、去年まで泳げた川が工場排水で臭気を発し、緑で覆われていた河原は廃棄物で埋められた。

あのときの日本人の自然破壊のすさまじさを実見している身としては、今さら「地球環境を守ろう」なんて言われても「今さら何を言ってやがる」という気が正直あるが、それでも近年、自然が少しずつ回復していることは率直にうれしい。特に西日本の自然の回復は東よりも速く進んでいるように思う。瀬戸内に美しい海が戻り、田舎の風景が穏やかになってきた。過疎化は進んでいるが、上手くダウンサイジングしている地域もある。私は18年前に東京から移り住んできたけれど、バブルの熱狂のさなかの東京から阪神間に来たときは、「ここは人間の暮らせる街だ」とほっとしたことを思い出す。

もう東京モデルは使えないし、地方がミニ東京化することには何の意味もない。それよりはむしろ、かつて日本が300の藩に分かれていた幕藩体制の時代のように、行政単位を小さくして、それぞれの地域性に根ざした自治体制を充実させることが有効だろうし、国民の多くも無意識的にはそれを望んでいると思う。システム論的に言っても、中央集権・一極集中はリスクが高い。手直しのしやすい、ヒューマン・スケールの行政組織にゆっくりと編制し直してゆくことが21世紀日本の趨勢になるだろう。 ■


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