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名越 康文・精神科医

2005.05.15
シリーズ・日本人の心
「『沈黙』と『間合い』の中で感じる日本人の心」

名越 康文・精神科医

名越 康文 なこし やすふみ  精神科医
1960年奈良県生まれ。臨床をおこなう傍ら、テレビ出演やラジオパーソナリティ、漫画・映画評論、漫画の原作ブレーン、文筆業など幅広く活躍中。著作に「スプリット」(甲野善紀氏、カルメン・マキ氏との共著・新曜社)、「キャラッ8(パチ)」(幻冬舎)、「14歳の子を持つ親たちへ」(内田樹氏との共著・新潮社)など。


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「心はやってくる」。僕の感覚では日本人はそう考えていた節がある。
普通は「心がある」と言うが、「ある」のではなく「やってくる」と言った方が実感的には近い気がするのだ。というのも、心と言っても、僕らは物理的にそれを見ることも触れることもできるわけではなく、あくまでも感覚的にそれを捉えているからだ。ではいつも心を感じるかというと、決してそうではない。むしろ普段の我々は、ほとんど心など感じ取ってはいない。自分の心、他人の心を感じ取れた時に、心がやってくる。そう考えた方が、むしろ現実の現象に即している。

例えば源氏物語や枕草子、徒然草は、絶えず自分の心を周りの自然に反映させていると読み取れるが、そう読み取ること自体、現代的な先入観が入り込んでいるのかもしれない。むしろ桜が散るのを見たり、夕陽が落ちるのを見るなかで初めて自分の心を感じ取っていたという方が正しい気がする。つまり、心はそのたびごとに発見されるものであり、敢えて言うと、あったり、なかったりするものなのだ。

では、いつ心を感じるのか。例えば人と喋っている時は、さまざまな思考が浮かんだり、喜びや怒りなどの感情が生起したりはするが、心を感じるというのではない。むしろ、山に登ったり、広い公園などに行って、一人静かに夕暮れの空を見上げているとき。そんな時に僕らは心というものを感じ取っているのではないか。ふっと一人になった時、ぽつねんといる時、ちょっと寂しい時、沈黙の時に、人は心を感じている。そういう実感からして、心理学で分析している「心」には違和感がある。それは、心じゃなくて言動・行動のパターン。日本人の伝統的な心とは、かなり違う感じがする。

「余韻」「間合い」「沈黙」の中で、日本人は心を感じてきたんじゃないか。例えば、中国や香港の爆竹は、いきなりバババと鳴る。でも日本の花火は、シューッと上がって、しばらく経ってからドーン。その間合いに意味がある。情感がある。しばらく沈黙があってからドーンと鳴る時に、その間合いの妙に、こみ上げてくるものがある。

日本の自然とか風土、季節感が、どれだけ今も日本人に影響を与えているか。人の気質・気風は国によって異なる。例えばイタリア人はやや過剰で熱い感情表現が好きな競合タイプ、パリの人は思わせぶりでロマンを求める。ドイツ人には頭脳タイプ+競合タイプな文化的センスを感じる。国によってベースになる文化の雰囲気・気質が違う。明らかに日本とは文化の気風、文化的風土の根本が違うような気がする。

日本人の場合、「場」の空気を読み取る中で、その人自身の性格が立ち上がってくる、という特徴がある。だから日本の心理学や社会学の分野などで「関係性」がすごく受け入れられたのは、もともと日本人が関係性の中で自己を成立させていたからだろう。他の国の人は場の空気を読むというより、むしろまず強い自我を持つ必要がある。私はこう思うと絶えず主張しなければ、存在自体を認められない風土がある。特にアメリカなど、権利はもともとあるのではなく、あなたが主張する時にあるという考え方。日本人は、そこに存在はあるが、その存在は場に規定されるという感じ。だから日本では、場をうまくまとめる親分肌的な人が評価される。

それは、ある種「器」的な感覚。日本人は人格を評価するのに「器量」という言い方を用いる。その人がどういう自我を持っているかでなく、場の空気をどう受け取るかという感性の問題。だから僕は個人の特質を捉える方法論として、性格分析より感受性分析を唱えている。つまりその個人がどういう自我を持っているかという視点ではなくて、どういう状況のときにどういう感じ方をする傾向があるかという、その人の「感受性」を分析する。例えば、ある責任を与えられた時、積極的に燃える人もいれば、逆に重荷に感じて萎縮する人、誰かに依存する人もいる。それは行動パターンが違うという前に、責任を持たされた時の感受性が異なっているからだ。とすると、自我としての性格じゃなく、場を感じ取る器としての性格という方が、日本人の感覚にはしっくりくる。

ただ、場での行動は絶えず変化していて、組み替えられない固定した構造の中で家族の脅威、DVが始まったりする。場が固定すると、実際の対人関係においては相手に対して先入観や偏見を知らず知らずに持ってしまって、自身ではその狭量な意識の中から脱出できなくなってしまう。「こいつはこういうヤツだ」と、可能性や人格を規定して、結果も決めつけてしまう。それはある種の精神の老化現象。相手の話を、開かれた感性をもって聞くことができず、ニュアンスや変化の流れを捉えることが難しくなり、場は一層固定化してゆく。

だから「違和感」を大切にしないといけない。この子は昨日と今日ではへこみ方の色合いが違うとか、目の輝きが違うという差異、変化を感じ取れるかどうか。先入観という色眼鏡を持たなければ、おそらく誰もが感じ取れる。ところがガチガチに先入観を持って周りの人間や家族を見てしまう裏には、他者に対する「恐れ」がある。相手が何を言い出すんだろう、そのことでまた自分が傷つけられるんじゃないかという恐れから、相手に対して身構えてしまう。それが先入観という鎧。日本は今、他人に対する恐れの時代。他者に対する潜在的恐れがあるから、固定観念を持ち、関係が硬直化してしまうという悪循環がある。

もともと僕らの中には、「間合い」という感覚がある。
ところが今、間合いが取りにくくなっている。自分に自信のない人たちは、相手とどう距離を取ればいいかわからず、他人を恐れる。他人に嫌われたら生きていけないと、自分の近傍から一歩も踏み出せない、いわゆる引きこもり傾向の人。あるいはその逆に、相手に頼りにされていたいという思いから、過剰に相手の世話を焼き、相手から必要とされているという実感を強迫的に渇望してしまう他者依存傾向の強い人も増えている。このタイプの人は他者から必要とされているときのみ、自分に生きる価値があると思い込み、他者からの評価だけを生きがいにしてしまっている。しかし相手からの評価を引き出そうとする強迫的な言動が、ともすれば行き過ぎ、相手との距離を異常に縮めてしまう。そしてその結果として相手に対して支配的、あるいは猜疑的な態度で迫ることが多くなり、関係そのものが破綻してしまうことも多い。こういった傾向のある人同士がカップリングすると、近年よく取り沙汰される「共依存」という関係に陥ってしまう。これも形を変えた他者に対する恐れの一形態だと言えるだろう。

これらの根本には、「距離」という概念に対する誤謬がある。
距離というのは、当然、物理的距離だけを意味しているのではない。しかし、特に通信ツールの爆発的な発展によって、さまざまな距離感を使いこなすことが、我々の日常生活を守るための、必要不可欠な技術となってきている。例えばメールをするときの字数、内容、ニュアンス等。バーチャルツールは、通信回線を使っていつ如何なる場所でも一瞬で相手に届けることができるだけに、かえって文脈の中にある距離感を的確につかんでゆかなければ、相手との関係性が破綻しかねない。

僕は時々、我々は電話という音声コミュニケーションの時代から、あたかも平安時代の貴族が和歌をやりとりし合っていた時代のように、文字で気持ちを通わせる時代に舞い戻っている感覚におそわれることがある。しかし平安時代は和歌を詠んでも、それが届けられるまでの物理的な距離があり、また身分制度やしきたりなどもさまざまにあり、それが一つの安全弁になっていた。ところが現在は、しきたりどころか、通信ツールにおいては物理的距離そのものが、全く意味を持たなくなってしまった。空間的な距離に規定されていないだけに、精神的な距離を自分でわきまえ、また他者に対して演出できる感受性がないと、もたない時代。しかも平安時代なら、例えば桜が散ってしまった、と詠めば、あなたは心変わりしたんじゃないのという意味というように、共通の文化的土壌があり得た。そういうことが教養としてあったけれど、メールには未だに共通の文化素養がなく、例えば世代間でも男と女の間でも、メールの言葉に込める意味に乖離がある。他者とのコミュニケーションツールの強力な支援下に、人間の存在がついていけてないのが、今の混乱の一つの原因とも言える。

心は沈黙の中にある。言葉から心を感じ取るわけで、言葉の中にあるわけではない。心と言葉は一緒じゃないが、その言葉によって相手との距離を感じ取ることが、ものすごく廃れ、無意識的、無頓着になっている。

今すぐやらないといけないことは、相手と自分の程良い距離感を見つけ出すこと。何かおさまりがいい、しっくりくる距離感、関係性。相手とともに生きているという感覚がぐーっと立ち上がってくる「絶妙の距離」がきっとある。それは例えば映像における焦点のようなイメージ。映写 機とスクリーンの間の距離は、近すぎても遠すぎてもぼやけてしまう。人間関係も、相手と自分とが個として響き合う姿が美しく結像される距離を、自分の感覚を頼りにして絶妙に測っていく時に、本当の喜びがあるのではないか。

それには、相手と正面から関わるということを学ぶ必要がある。相手が何を考えているのか、感じ取ろうと集中すること。よく親子できちんと話そうというと、さあ話そう、君の意見はどうだ、となる。でも、感受性が繊細な子ほど安易に言葉に出せないもの。関わるというのは、相手の時間の流れに沿ってあげるということ。相手にうまく馴染んでゆく感覚がないとダメ。心自体は語られることはない。語られた言葉によって、かろうじて指し示されるのだということを念頭に置いて、相手の声の調子、リズム、テンションを感じ取る。相手の時間と自分の時間は違う。相手の心の震えを実感できる感受性、直感力を持ち、「相手の時間に沿う」ことが肝要。

そういう時間が過ごせたあと、相手と関わって自分が何を感じたかをもう一度反芻したいような気持ちになったとき、だいたい人は一人になろうとする。例えば一人で、マンションのテラスに出て、ほーっと一息ついて、夕陽を眺めた時に、少し満ち足りた気持ちがしてくる。それがおそらく「心がやってくる」時。そういう間合い、瞬間。「のりしろの時間」というか、自分が一人に戻るときが、逆に人との関係性の妙、距離感を自分がスッと感じ取っていく、得心する時間だと思う。■


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