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高橋 伸彰・立命館大学教授

2003.12.01
「競争時代の制度改革── 『では』より『には』の発想を」



高橋 伸彰

たかはし のぶあき
立命館大学国際関係学部教授(日本経済;政策論;制度改革)
1953年北海道生まれ。早稲田大学政経学部卒。日本開発銀行入行。日本経済研究センターへ出向、84〜87年通産省政策理論研究室主任研究官、日本開発銀行経営計画室調査役を経て、91年ブルッキングズ研究所客員研究員。日本開発銀行設備投資研究所主任研究員などを経て、99年立命館大学教授。著書「優しい経済学―ゼロ成長を豊かに生きる」「数字に問う日本の豊かさ」、分担執筆「トピックス日本経済87-88」「設備投資と日本経済」など。


競争社会には常に功罪両面がある。しかし日本のこれまでを振り返ると、罪ばかり強調していたかと思えば、今度は一転、功ばかりにスポットを当てるという具合に、一方に偏り、バランスを欠いた議論を繰り返してきた。例えば学生運動華やかなりし頃は、公害問題など競争の弊害が盛んに言われ、大企業はさながら極悪人扱い。それが今は競争の光の部分ばかりを強調し、社会への影響には極めて無関心だ。

人間にとって、社会の発展にとって、競争は必要なものだ。競争原理が働かないと、社会は衰退し、人間は努力を怠るようになる。だから競争効果が発揮できるよう制度を変えるのは悪いことではない。ただ、だからといって何でもかんでも競争すれば良くなるというのは短絡的。どうも日本はバランス感覚がないらしく、制度もバランスを欠いたものになりがちだ。

競争社会は努力した者が報われる社会だとか、ビル・ゲイツをめざせとか言われるが、みんながビル・ゲイツになれるわけがない。報われるのは、努力した人のうち、たまたま競争に勝ったほんの一握りの人だけ。いくら努力しても報われない人の方が多く、8割以上の人々が敗者になるのが競争社会。だからもっと敗者の声に耳を傾ける必要がある。

望ましい制度設計にあたり、まず留意すべきは、そういう敗者なり弱者の声に耳を傾け、何か問題が起きたとき調整できる仕組みをあらかじめ埋め込んでおくことだ。競争の本家・アメリカでさえ、金融自由化を進める一方で、銀行による低所得者切り捨てを防ぐべく、18歳以下と65歳以上が口座開設を求めたら拒否してはならないという非常に厳しい規制を設け、バランスを取っている。なのに日本の制度はその点がほとんど考慮されず、大きな弊害が起きて初めて「行き過ぎだった」となる。

例えば、最近の駅のホームにはほとんど駅員がいない。乗り換え路線を聞こうにもそんなことに応える余裕はないほどに人員が絞られている。合理化・効率化が進み、削られた人員は「ムダだったもの」として切り捨てられるが、その結果、客へのサービスは削られて、少なからず不便を被る。それで回ればいいが、そのうち回らなくなる。ワンマンバスにしても、お年寄りの客が増える高齢時代にはやっていけない。企業側は経費削減、客側は価格が下がればいいとだけ思って進めた合理化が、安心や安全まで脅かすことになる。

もう一つ、システムや制度は人の思考や行動を前提につくられるものであり、全世界共通とか全国一律というのはおかしい。競争政策にしても、どの分野に、どの段階で競争を入れるかは各国、各地域が固有事情や国民性、地域性を考慮して決める問題だ。ところが日本は、日本ならでは、地域ならではの固有性には注意を払わず、アメリカでは、ヨーロッパでは、東京では、と「ではのかみ」たちが幅を利かせる。アメリカ「では」そうでも、日本「には」日本の事情があるし、地方には地方の論理、私には私の考えがある。よそのシステムや制度をそのまま持ってきても馴染まない。「では」より「には」の発想こそ大事だ。

例えば、六本木ヒルズをつくる時、近くにある古いお寺の景観が変わることは問題にされなかったが、京都はいくら建築基準法や都市計画法に則っていても、お寺さんからチェックが入れば計画を見直し、景観を守る手立てを考える。京都「には」京都の論理があるからだ。

そもそも「一物一価」という考え方など、感性がないことこのうえない。京都の九条ネギと中国産のネギ、ネギはネギで同じだから値段も同じであるべきとか、日本のコメも外国産のコメも同じとか── 商品分類が同じならみんな同じという発想こそがおかしいのに、それがさも合理的な考えだと思われている。

とにかく何でも一律に自由化させ競争させればいいという考え方は疑問だ。企業社会では儲かればいいというだけの発想になる。儲からないというだけでサービスを断れるなら、こんなに簡単なことはない。電力会社が、儲かるところにだけ電気を売っていいなら、これほどラクなことはない。だけど公益や社会的責任を果たすため、儲かる・儲からないにかかわらず、サービスを提供しないといけないこともある。それを忘れ、利益効率だけで行動すれば、安心・安全な社会が崩壊してしまう。

日本は今こそ、一方的で一律な競争原理導入に走ることなく、競争の功罪に目配りした、日本ならではのシステムを考えないといけない。そしてそれを考える主体は、国でなく地域やコミュニティだと私は思う。

なぜなら現代は「不可視社会」。システムが大きすぎて、自分が誰かに迷惑をかけても目に見えない。本来、支援や援助は、支援される側が最善を尽くして、それで足りない部分を補うもの。なのに今は最善を尽くす前に援助してしまう。働けるのに働かず、失業保険をもらっても、その金が誰の懐から出たか分からないから、良心が痛まない。そんな不可視社会に競争原理を導入すれば、ますます人間は利己的になる。利己的な人間を前提とした制度は、また利己的な人間を再生産し、いわば制度と人間の悪循環に陥る。

むしろめざすべきは「可視化社会」── 見えるところでシステムをつくっていけば、自分がサボれば同僚のAさんやご近所のBさんに迷惑がかかる、と実感できるから、必要以上に手厚い福祉社会化にも歯止めがかけられる。不要な競争をさせなくても、共同、協力という形で物事は動いていくはずだ。

言い換えれば今の社会は、人と人との距離がどんどん離れていってる。昔、フライトアテンダントの教育は一言で済んだ、という話を聞いた。「あなたのお父さまに接するようにお客さまに接しなさい」と。今は親父に対するような態度で接したら客が怒る。だから些細なことまでマニュアル化して教えないといけないが、肝心のお客さまとの信頼関係づくりという精神を教えていないので、関係性は壊れてしまった。これを取り戻すところから始めないといけない。

競争が必要なものである以上、今一度、多様な声に耳を傾け、どの分野どの段階に導入するかを、それぞれの地域で考えたい。地域には地域のやり方がある。競争の影響に目配りしたバランスのとれたシステムも、地域でならつくりやすい。もともと日本は、地域性やコミュニティ、人と人との関係性を大切にしてきたわけで、まずはそのコミュニティの価値を復活させる。そして社会保障や都市計画、商店街の活性化策も、それぞれの地域性に見合った独自の制度・ルールをつくってやっていく。そういう社会の実現は、コミュニティを構成する一人ひとりの意識と行動にかかっている。(談)■


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