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大澤 真幸

2003.07.15
「『責任』への視点──
  自由な時代のなかで」

大澤 真幸

おおさわ まさち
京都大学大学院人間・環境学研究科助教授(比較社会学・社会システム論)
1958年長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。東京大学文学部助手、千葉大学講師、助教授。97年より現職。「GS」「現代思想」で“身体論”などをテーマに独自の論理を展開。著書「自由を考える」「文明の内なる衝突」「行為の代数学」「身体の比較社会学」「資本主義のパラドックス」「電子メディア論」「性愛と資本主義」「虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争」「社会学の知33」「意味と他者性」「戦後の思想空間」など。


ホームページ>>  http://fischer.jinkan.kyoto-u.ac.jp/~masachi/index.html


「責任の蒸発」が起きている。
「自己責任」「自己決定」という言葉が時代の流行語になるなかで、責任を追及すればするほど、逆に責任が消えていく。これが僕の基本的な時代認識。

自己責任というのは、言ってみれば自業自得――たとえネガティブな結果が出ても自分のせいということで、経済的な規制緩和もその流れにある。規制に守られ、大失敗しても潰れない企業があるのはおかしいから、規制を外して責任を透明化しようという意識は、以前よりはっきりしてきた。

だけど責任は見えてこない。表層的には市場の論理の徹底を言いながら公的資金を注入したりして、責任は見えなくなる。責任について漠然と考えていたときは見えてたはずなのに、眼を凝らして見ようとすると、却って見えなくなる。まるで騙し絵みたいな感じ。

責任の蒸発は日本だけの現象じゃない。アメリカは日本以上に自己責任社会。で、何が起きるかと言うと、「帰責ゲーム」──責任の押しつけ合いになる。これが訴訟社会。自分の責任になると大変だから、「自分のせいじゃない」ことを論証しあう。責任という弾(たま)が自分の手元で爆発しないよう、みんなでパスして回し合う。すると、いつの間にか不発弾になってしまい、ここでも責任が消えていく。

なぜこうなったんだろう。僕は知識や真理への信頼が揺らいでるからだと思う。もう少し厳密に言い換えると、「真理を知っている主体」がどこかに存在していることへの信頼が揺らいでいるからだと思う。今、さまざまな局面で是か非かを問うような論争が起きている。科学技術にしても、本来、科学的知識はいつも暫定的、仮説でしかないが、ほぼ真理と認められた仮説を「定説」という。最初は専門家の意見が分かれていても、徐々に議論が収束し、定説が生まれる。ところが環境問題のように、いつまでたっても定説が出ず意見が対立したままのものが増えてくると、本当は誰も何もわかってないんじゃないか、真理なんてないんじゃないかと思ってしまう。

そもそも自己決定・自己責任を言うようになったのも、何が善で何が悪か、何が真理かわからなくなったから。そうなった以上、みんな勝手に判断してくれ。だけど他人に迷惑をかけてほしくないから、自業自得にしてくれということ。

例えば医療のインフォームドコンセント。十分説明して治療にあたるのは、いいことには違いない。だけど、100%こうすれば治るとわかっていれば、インフォームドコンセントなんて必要ないかもしれない。医者も判断できないから、患者に「自分で決めてくれ」となる。プロの医者にわからないものを、素人の患者に判断できるはずもなく、サイコロを振るみたいにして決めるしかない。それで「自分で決めたんだから」と責任を問われても、どうも釈然としない。

責任を追及しようという風潮と無責任社会は表裏一体。自分で納得して選択すれば、結果を受け入れる気にもなるけど、サイコロを振って出た偶然性に、人は責任を持てない。

今は社会全体が「インフォームドコンセント状態」。わからない問題が増えてきて、みんな自己決定を迫られた患者状態に陥っている。

確かに自由にはなったし、選択肢も増えた。だけど何を選べばいいかわからない。例えば最近、伝統芸能の人がかっこいい。少し前はああいう人たちは選択の自由がなくて可哀想だと思われてた。ところが今は羨ましい。よほどでない限り今は親の仕事を継がなくていい。自由にやっていいと言われるけど、選択肢が多すぎて苦しい。ミヒャエル・エンデの描いた『自由の牢獄』と同じ。自由に出ていけるドアが多すぎて、どれも選べない。

選択肢を与えられ判断しようとするとき、人は、十分な知識・情報を持ち完璧な真理がわかってる人がいるとすれば、その人はどう判断するか、を考える。ところが今は「正しい結論を知ってる人がいるとすれば」という前提が揺らいでいる。

自分には何が真理かはわからなくてもいい。わからないけど、どこかに真理があると思えればいい。「神の考えていることはわからないけど、確かに神はいる」と思えれば、人はアクティブになれる。でも今の状況は、もしかして神様はいないんじゃないの、という気分。普遍的な真理なんてないんじゃないの、という感覚が、状況をアナーキーにし、「責任の不発弾」を生んでいる。

状況を立て直すとすれば、まずは「責任と原因は違う」と認識することが大事。原因=責任だとすれば、どんな人にも責任なんてない。だってどんな原因にもさらなる原因がある。原因を遡るのをやめて、ここで打ち止めにしようという気がないと、責任なんて負えない。

プロ野球の監督はチームの成績が悪いと責任を取って辞める。でもチーム不振の原因は100%監督にあるわけじゃない。つまり責任を取るというのは「火のないところに煙を立てる」――自分に原因はないが、原因があると考えてもらっても構わない、ということ。上司が部下に何かをやらせたいとき、「お前の自己責任でやれ」というと、部下は足がすくむ。責任は一切俺が取るから、失敗しても原因の追及は打ち止めにしようと、英雄的に原因を引き受けるのが、本来の責任の取り方だと思う。

責任の裏返しに「謝罪」があり、謝罪のペアとして「赦し」がある。僕らは普通、「謝ったら赦してあげよう」と思う。謝るということは、悪人が少し善人になるということ。赦す「原因」ができたから、赦そうという因果関係の論理になってる。だけど本来、原因がなくても結果を引き受けるのが責任の取り方。とすれば、赦しについても「謝ったから赦す」んじゃなく「赦せないこと、謝りようのないことでも赦す」ことが大事になってくる。

世の中には「赦せないこと」が充ち満ちている。9.11テロ後のアメリカのように、赦せないと怒り続けるのが本当に正しいのか。「責任を負わない」人々と「赦せない」人々の葛藤は永遠に解決しない。謝れと言い続けるエネルギーを「赦す技術」に転換させる。そして「赦す」ことを考えることで、責任を再生させたい――僕はそんなふうに感じている。■


関連資料

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