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2002.08.01
『教育』への視点──
  ひとづくりをどうする?

苅谷剛彦

かりや たけひこ
東京大学大学院教育学研究科教授(教育社会学・比較社会学)
1955年東京都生まれ。東京大学教育学部卒、同大学院教育学研究科修士課程修了、ノースウェスタン大学大学院博士課程修了、社会学博士。同大学客員講師、放送教育開発センター助教授などを経て、現職。主な著書「教育改革の幻想」「知的複眼思考法」「大衆教育社会のゆくえ」「学校って何だろう」「アメリカの大学・ニッポンの大学」「階層化日本と教育危機」など。


2002年4月、「生きる力」を謳った新学習指導要領が始まった。

これまでも数回、教育改革は行われたが、今回の改革に至る流れをつくったのは1980年代、中曽根内閣の臨教審だ。時代はちょうど欧米へのキャッチアップを終え、自力で進路を切り拓こうという時期。自ら創造性を発揮するという国家戦略が掲げられ、金太郎飴のように画一的・中央集権的だった教育の自由化が謳われた。しかしここから屈折が始まる。審議を重ねるうち「自由化」は「個性化」に置き換えられ、個性重視の教育、つまり「個人のための教育」へと大きく屈折。その後のさらなる改革論議を通じて、国家戦略としての創造性から社会的視点が後退し個人的視点重視へ、教育学的に脱色されてしまった。

こうして改訂されたのが、前回の指導要領(92年〜2002年3月まで実施)で、テーマは「新しい学力観」。従来の「知識量」で測る学力でなく、子供自らが学ぼうとする「意欲」や「態度」こそが「学力」という考え方だ。教師は「指導者」でなく、学習を助ける「支援者」。教科書の内容を丹念に説明する技能は評価されなくなり、子供たちに自由に発表させる授業が、まさにfad(一時的流行)という感じで全国を席巻した。

そもそもこの新しい授業スタイルは、60年代に米国で行われ、それを受けて日本でも一部の先進校が採り入れた。確かにそれは創造性を養うに理想的ではある。しかしいくら理想的でも、小中学校だけで教師が65万人もいる国で、ある日突然、十分な教え方の指導もないまま全国一律に変えるのは無理と言わざるを得ない。実際、現場では問題を指摘する声が挙がったが、今回の新指導要領では、「新学力観」はまだ手緩いと「総合的な学習の時間」が設けられ、いじめや自殺、子供の事件を背景に「楽しい学校」というメッセージも加わり、「生きる力」というテーマに結実。学校はもっと子供にやさしく──kindにeasyに、やりたくなければしなくていい、できないなら易しくしよう、というわけだ。

これら一連の改革に共通するのは「子供の主体性を尊重する」という考え方。聞こえはいいが、へたをすれば「子供の言いなり」になる。しかもそこでの前提は「いい子供」──自ら課題を発見できる子、学ぶ意欲のある子だが、現実にはそんな子はごく僅か。宿題がなければ勉強しない子、テストがなければ教科書も開かない子が多いことは、少し周りの子供たちを見れば分かる。

なのにそういう現実に目は向けられないまま、教育政策はこの20年余り、思い込みや印象だけで突っ走ってきた感がある。私自身、実際に検証してみると、実態はこれまで問題とされていたこととは実は全く逆だった。塾や受験でゆとりがないと言われながら、実際の勉強時間は95〜96年を境に減少。意欲を高めようとした新学力観の10年間は逆に学習意欲を削ぎ、かなり基礎的な学力すら定着していないと言える。

そもそも私が教育改革に不安を抱いたのは、小中高校の教育を「米国化」させながら、大学教育は一向に米国化しない点。確かに米国は高校までの教育は自由で多様だが、大学でぎゅっと締める。日本はその部分に手をつけないまま、高校までを緩めてしまうとどうなるのか。知識を軽視しすぎると、いくら子供に調べ学習で発表させようにも、その内容すら読めない、判らないことになる。

私自身、新学力観で教育を受けた訳じゃない。だから私たちの世代は金太郎飴かもしれないし、創造性もないし、批判的能力も、自ら調べる力もないかもしれない。だけど今の大人たちは、どこかでそれを身につけている。でなければ、これだけ複雑な日本社会がもつはずがない。

大事なことは、どの段階でどういう教育をするのか。小学校で基礎を身につけないと中学の授業は解らない。基礎をしっかりした上で、調べ学習のような高度な学習は高校や大学で行えば、実質的に効果が出るのかもしれない。要は改革の中身と、子供がどの段階でどういう知識と向かい合うかが逆転していたわけだが、「子供のために」というマジックワードの中では、「知識」などと言おうものなら、また受験教育かと糾弾される状態が続いた。99年に『分数ができない大学生』という本が話題になって初めて、みんなが学力低下の問題に気づき、揺り戻しの世論が起きた結果、文部科学省も新指導要領の開始直前に「基礎学力は大事」「指導要領は最低基準」と軌道修正を行った。

98年の改訂から2002年の実施までの間に振り子が大きく振れた今回の教育改革だが、そこで得られたものもある。第1に、これまで何の検証も反省もせず政策を立ててきたことへの疑問が起き、単なる思い込みでなく根拠のある議論が必要なことに気づき始めた。第2に、一面的な知識批判を脱し、社会との関連、歴史的視点など、広い視野から教育問題を論じる雰囲気が生まれてきた。第3に政策への信頼が揺らいだことで、学校や地域の教育委員会など、これまでは周りの様子を伺っていた教育現場が「自分たちがやらないと」と思い至った。

この3つの変化を上手く生かせば、教育はかなり変わる可能性がある。新指導要領は課題も多く、失敗の危険も孕んでいる。しかしそこを経て立ち直る道筋も見えてくるはずだ。新学力観導入以前、日本の小学校では子供たちの意欲を高めるバランスの取れた教育が行われていたという米国の研究者の報告もある。今まで日本の教師たちが実践してきた意味のある学習を、再び教育改革の中心に位置づけ直し、イベント的な学習でなく日常的な学習の水準を高めていく。今こそ教育を立て直すチャンスだと思う。■


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