第二日 街に明かりが戻り始めた

  • 1.第2日の夜明け
  • 2.神戸をめざして
  • 3.戦列復帰、続々
  • 4.目標は「5日以内」
  • 5.明かりが灯った瞬間

1月18日 停電軒数/約40万軒

1.第2日の夜明け

17日夕刻、神戸支店から西宮営業所に戻った須藤伸一郎所長は、500人余りの作業員とともに、営業所で翌18日を迎えた。夜明け前、余震を心配しながら仮眠をとろうとするが、なかなか眠れない。窓を開けると、営業所前の国道2号線には数珠つなぎになった車の列。その中を縫うように、消防車や救急車がサイレンを鳴らして走り過ぎた。

やがて夜が明けた頃から、きんでんの工事部隊が続々と到着し始めた。和歌山、大阪南、京都の各地から、その数400人余り。準備もそこそこに、昼夜兼行で駆けつけたと聞く。「よし頼むぞ、きんでん!」。須藤は思わず、そう叫び出したくなった。

工事部隊は落ち着く間もなくミーティングを終え、現場へ出発していった。道先案内のため同行したのは、関西電力社員のほか、きんでん、関電サービス、園田計器など関連会社の社員。技術系・事務系を問わず、地理に明るい者は率先して現場に向かった。

午前11時過ぎ、須藤は西宮営業所管内の送電状況を確認した。午前8時現在、配電線341回線のうち324回線の送電を完了。未送電は西宮、芦屋、宝塚など17回線、停電軒数は約3万軒(関西電力管内全体では約40万軒)。「思ったより復旧は早いぞ」。須藤は確かな手応えを感じ始めた。

ページトップへ

2.神戸をめざして

船で神戸を目指す

18日未明、神戸電力所長の川越英二は尼崎電力所にいた。17日は午前中、自宅近くの北豊中制御所で情報収集と復旧対策にあたり、昼過ぎ神戸に向かったが、交通渋滞に巻き込まれて身動きがとれなくなった。一旦自宅に戻った後、なんとか尼崎電力所までたどり着いた。

どうしたら神戸に行けるのか──。数人で額を寄せ合っていると、そのうちの一人が「船はどうだろう」と言い出した。「そうや、船や!」。川越は思い出した。地中保線課が使用契約を結んでいる明石海峡の海底ケーブル監視船があることを。

早速神戸電力所に電話を入れ、18日早朝、尼崎の発電所岸壁へ回航するよう手配を依頼。同乗する者への連絡も済ませると、短い仮眠をとった。

午前6時30分、尼崎電力所を出発した。船は予定より30分程遅れ、8時半頃、尼崎第三発電所に到着した。発電所でもらえるだけもらった水や食料を積み込み、出港した。途中、東灘ガスタービン発電所に立ち寄った。同発電所には数人の所員が待機していたが、近くのタンクでガス漏れがあり、退避勧告が出たと聞いたからだ。発電所に近づくにつれ、確かにガスの臭いが強くなった。接岸するなり発電所員4人を無事救出すると、船はさらに西へ向かった。

約1時間で長田港に着き、電力所には10時過ぎに入った。暖房のない事務所の寒さが身にしみた。早速各課長を集め、対策会議を開く。昨日からの勤務で、皆の顔にはさすがに疲れの色が濃かったが、そんな皆の努力によって復旧作業は順調に進捗していた。

ページトップへ

3.戦列復帰、続々

輸送ルートが整いはじめる

2日目以降、現場には社員が次々と戻り始めていた。

社員の多くは、自らも被災者。家族や家を失った者もいた。それでもある者はいくつもの交通機関を乗り継いで、ある者は家族を避難所に送り届けて仕事に戻った。なかには数時間をかけて、自転車や徒歩で出勤してきた者もいた。

「社員や家族の安全を考えると、今回は各自の被災対策を優先せざるを得ないと思っていたが、ほとんどの社員が自発的に早期復帰を果たしてくれた」。神戸支店長の藤田は、のちにそんな感慨を語った。

復旧資機材や物資の輸送ルートも整い始めた。まず電線などの軽量資材や、水、食料といった救援物資は海上ルートを利用。17日午後6時頃、姫路から神戸への第1便(輸送物資は弁当、お茶、水、ドリンク剤など)が到着したのを皮切りに、19日には大阪南港からの輸送も開始。ピーク時には1時間1便のペースで、人員や物資を運び続けた。

一方電柱、燃料などの陸上輸送は、当初道路の大渋滞に巻き込まれ、復旧作業にも大きな影響を与えたが、17日夜半頃から大阪府警・兵庫県警の協力を得て、パトカーによる先導を受けられるようになった。さらに18日以降は、フロントガラスに「関電マーク」を付けることで、緊急車両として優先的に通行できるようになった。

作業初日、非常食のカンパンやカップラーメンで飢えと疲れを凌いだ多くの社員は、続々復帰する仲間と動き始めた支援体制に力を得て、今日もまた現場へと向かった。

ページトップへ

4.目標は「5日以内」

応急送電に全力をあげて

この日午後8時までに、関西電力本店では計7回の対策本部会議が開かれ、被災地復旧に向けた4ステップの目標が立てられた(1:応急送電 2:仮復旧 3:本復旧 4:本格復興)。

これに基づき、第1ステップとしては、5日以内に全域で応急送電を完了させるとの目標を決定。

  • ライフラインの使命である重要負荷(病院、避難所、役所など)への緊急送電と、被災者の生活用電力への応急送電を最優先する

  • 応急送電に必要な工事量は最小限とし、最大限の要員・車両(工事力)を投入する

  • 設備安全、作業安全、電気安全を徹底し、二次災害を防止する

などの方針が現場第一線にまで徹底された。

地震発生直後から、関西電力の営業所には、「いつ電気がつくのか」といった問い合わせが殺到していた。なかには「ペースメーカーのバッテリーを充電したいから、早く電気を!」という切実な訴えもあった。数あるライフラインのなかでも電力は、人命救助や負傷者の治療のみならず、被災者の精神的不安を解消するためにも欠かすことのできないもの──まさに非常時の「命の綱」。その社会的ニーズを改めて思い知った関西電力は、応急送電に全力を挙げ始めた。

ページトップへ

5.明かりが灯った瞬間

病院、避難所などに電気が灯り始める

応急送電に先立ち、被災者が次々と運び込まれる病院や、避難所となっている小・中学校、消防署、警察署、役所などの施設(計56カ所)には「緊急送電」が行われた。

緊急送電は、移動用発電機車を使って行われたが、当初は機車用燃料(軽油)の確保にも苦労した。特に神戸は、市内のガソリンスタンドが軒並み停電で営業を停止。三宮営業所では、近隣の営業所や関連会社に窮状を訴え、なんとか翌日までの必要量を確保するのが精一杯だった。

18日以降は供給体制も整い、燃料不足の心配はなくなったが、交通渋滞のため給油部隊の到着がしばしば遅れ、現場をやきもきさせた。

それでも18日夜には、あちらこちらの病院や避難所で、一カ所、また一カ所と、電気が灯り始めた。そんな現場の一つにいた兵庫営業所の下谷正吾作業長は、のちにこう語っている。

「停電の間イライラしていたお客さまも、明るくなったとたんパッと顔を輝かせた。『電気屋さんは神様や』と感謝してくださったお客さまもいた。日頃は空気のように思われている電気がいかに大切なものか、我々自身も再認識した」

18日午後5時現在、停電軒数は約26万軒となった。

ページトップへ
第三日:「重点作戦」を展開せよ