考~でんきのもしも~ みなさまと共に考えるエネルギーの未来

もしもに備えた電気のあゆみ オイルショックで見直されたエネルギーのあり方 2013.06.28(2018.03更新)

これまでの電気のあゆみ

東日本大震災、福島第一原子力発電所事故や、新興国の台頭を中心とするエネルギー需要の増大など激変する世界情勢の中、今わが国のエネルギー政策についてさまざまな議論がなされています。

電気事業は国民生活や経済活動に大きな影響を及ぼす重要なライフラインを扱います。そのため、これまで常に「もしも」に備えながら、エネルギーを取り巻く環境変化に対応してきました。今回はその歴史をたどってみたいと思います。

1882~火力・水力発電所の黎明期

日本で電気が初めて使われたのは1882年のこと。東京・銀座に灯された電灯でした。その後、火力発電所、水力発電所が相次いで建設され、電気事業者数も増加。石炭価格の高騰もあって、水力発電所が次々と新設されていき、1912年に水力発電が火力発電の出力を超えてからは、水力発電が日本の発電の柱となっていきます。
そして1941年、太平洋戦争が勃発。物資も人手も不足していく中、空襲によって多くの火力発電所は破壊され、発電の能力は大幅に低下してしまいました。

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1945~戦後の復興をささえた電力

1945年に終戦をむかえ、復興にむけて舵をきっていく日本。
それにともなって電力の需要も急増していきますが、壊滅状態の火力発電所が多かったこと、1946年には石炭不足もかさなり、深刻な電力不足におちいっていきます。
そこで石炭の増産や発電所の復旧をすすめながら、電力事業の再編も行われ、1951年に9電力会社が発足。その4年後には日本の経済水準は戦前と同程度まで回復しました。

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1953~石炭から石油へ

1950年代、中東地域で大規模な油田が発見されたことをきっかけに、世界的なエネルギーの主役は石炭から石油へと移っていきます。
日本でも1962年原油の輸入自由化をきっかけに、火力発電所の燃料は石炭から石油へと移行。1963年に国内初の大容量石油火力発電所となる、尼崎第三発電所1号機が運転開始し、その後も石油による火力発電所が相次いで新設されていきます。
これによって電力の柱は、水力発電から火力発電へと変わっていきました。
そして高度経済成長とともに、現在の電気をささえるもう1つの柱、原子力発電も推進されていきます。
1955年から法律が次々と整備され、1963年には日本原子力研究所の動力試験炉が日本で初めての原子力発電に成功。
さらに1970年、日本万国博覧会の開会式の日に、日本原子力発電・敦賀発電所が運転を開始。同年8月8日には関西電力美浜発電所の1号機からも試送電され、電光掲示板には原子力の灯りが届いたことを知らせるメッセージが表示されたことでも話題になりました。


万博会場の電光掲示板
万博会場の電光掲示板
電気によって人々の生活も豊かに

日本の経済成長にともない、人々の生活もより便利で豊かになっていきます。
なかでも家電製品の浸透は、庶民の生活を劇的に変化させていきました。
1953年に冷蔵庫、洗濯機、トースターなどが発売され、1954年には国産テレビが登場、「洗濯機、冷蔵庫、白黒テレビ」が“3種の神器”としてもてはやされます。
1966年には、“3C”として「カー、クーラー、カラーテレビ」が人気に。
それまでは一部の富裕層しか手に入れることのできなかった家電製品が、一般庶民にも手が届くようになったのです。これら家電製品の普及によって、時間の使い方も生活のスタイルも変化し、“身近に電気のある生活”が当たり前になっていきました。

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1971~ オイルショックによるエネルギー政策の転換期

高度経済成長によって日本経済は大きく成長し、人々の生活も便利になっていきますが、その流れを停滞させたのがオイルショックです。1973年に起こった第4次中東戦争によって、石油価格が上昇し原油生産の削減も実施。世界的にエネルギーに対する不安が広まっていきました。
日本でも経済界・産業界は大打撃をうけます。一般の人々もパニックに陥り、デマが飛び交い、石油価格とは直接関係のないトイレットペーパーの買い占め騒動などが発生。「消費は美徳」とされていた価値観ががらりと変わってしまいます。

そして、それは電気も例外ではありませんでした。
1970年頃まで石油は大量に安価で輸入できるものであったことから、石油による火力発電に大きく依存しており、全電力の4分の3近くを占めていたのです。
石油に大きく依存していた日本は、中東の政治的な変化によって、電気のある生活が一変してしまうことに気付いたのです。
そこで1973年、資源エネルギー庁が設置され、エネルギーの安定供給やエネルギーの多様化などへの取組みが始まっていきます。
その1つとして推進されたのが、原子力発電でした。
原子力発電の燃料となるウランは、オーストラリアやカナダなどから輸入されているため、政情不安がなく安定供給が見込めます。またウランは少量で長期間発電し続けるうえに、発電にかかるコストも安価ですみます。
その後、1974年に電源三法が制定され、石油の火力発電への依存度を減らすために、原子力発電を中心とした、火力以外の発電所の建設が進められていきます。

大飯発電所
大飯発電所
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S+3Eの観点からエネルギーミックスを検討することが重要

2度のオイルショックを経験し、石油以外のエネルギー源を模索し始めた日本。1986年には電源構成比が原子力発電26%、石油火力発電25%となり、原子力発電は電気の安定供給を実現するための重要な電源の一つとなりました。
そのようななか起こった東日本大震災、そして福島第一原子力発電所事故。
極めて深刻な事故をきっかけに、エネルギーのあり方についてさまざまな議論が沸き起こっています。
エネルギー政策については、いかなる事態においても、国民生活や経済活動に支障がないよう、エネルギー需給の安定に万全が期されるべきです。
そのためには、「S+3E」の観点、すなわち、安全確保(Safety)を大前提 に、長期的なエネルギーセキュリティの確保(Energy Security)や経済性(Economy)、地球環境問題への対応(Environmental Conservation)を総合的に勘案したエネルギーミックスのあり方を踏まえつつ、電源構成を構築していくことが重要です。